昨日の田老鉱山を観ようして、田老町の道の駅で情報を集めようと立ち寄ったら、そこにいた方から、公民館に資料室があり、行けば見せてくれるとのことで、道の駅そばの公民館に。教室一つ分ほどに、田老鉱山の鉱石やら、関係書面やらがひっそりと展示してありました。
田老鉱山は田老町の北、国道から山側に入ったところにあった鉱山。他の鉱山には珍しく、現場に自前の製錬所を持たない「売鉱鉱山」として誕生し、宮古精錬所が出来るまでは、当時の日本領だった朝鮮の製錬所にに鉱石を売っていたとのこと。
当初、入口から少しの沈殿池だけ見ようと思ったのですが、沈殿池が少し埋め立てられていたことと、未舗装道路ですが、道幅が広く、行ける?と思ったことで、鉱山跡地まで進むことにしました。15分ほど激しいでこぼこ道を進むと、鉱山跡地に到着。
立入禁止のため、敷地内には入れませんが、好きな人には堪らない状態。精鉱場の屋根は崩れ落ちていましたが、沈殿槽などが残り、跡地手前には鉱山住宅もそのままで草木に埋もれていました。
そっち側でない人には、何が面白いの?というところだと云うことがよくわかりました^^;
++++++++++++++++++++++++++++++++++
田老鉱山
発見の時期は不明だが、安政年間(1860頃)に後の易断者、高島嘉右衛門が十数年間、鉄鉱石を採掘したと伝わり、高島坑として名が残ったという。その後放置状態であったが、大正8年(1919)にラサ島燐鉱㈱(のちのラサ工業㈱)が化学肥料の原料として硫化鉄鉱採掘を目的に買収。
本格的な採掘が始まったのは昭和8年(1933)からで、探鉱により含亜鉛硫化鉄鉱の大鉱床を発見。翌11年には選鉱場や第一工場(銅・硫化鉄の選鉱)の操業を開始。同時に宮古~田老(元山)13.5km間に索道を設置し、宮古・鍬ケ崎に貯鉱場を設置した。
当初は採掘された鉱石は、宮古港駅隣接の鍬ヶ崎(くわがさき)貯鉱場に索道で運ばれ、当時日本統治下だった朝鮮の長項製錬所などに海路で送られたが、昭和13年に宮古製錬所を建設して、銅製錬と硫酸製造を開始。
鉱山では、探鉱の成果で昭和13年に亜鉛鉱床、15年には黄鉄鉱の大鉱床を発見し、最初の最盛期を迎え、この頃には4,000人もの人口を有する大きな鉱山集落が出来、従業員用宿舎のほか学校や郵便局、診療所や商店なども出来た。
昭和19年に重要鉱物非常増産特別指定鉱山に指定され大増産が計られたが、昭和20年4月に軍需省の命令で一時休山となり、同年8月には空襲で銅製錬所は使用不能となった。
終戦後は翌21年からは鉱山が再開。戦後復興の需要で大盛況となる。さらに昭和25年(1950)からの朝鮮戦争特需で第二工場(銅・鉛・亜鉛・硫化鉄の選鉱場)も操業開始。朝鮮戦争停戦の昭和28年には企業整備で大幅に従業員を削減し、第二工場を休止したが、30年には再開。
昭和35年(1960)には鉛、亜鉛を多く含む新鉱床(本坑鉱床)を発見し、鉛・亜鉛の比重選鉱を導入し、生産を拡大した矢先の36年5月、三陸(フェーン)大火災で鉱山の地上施設と社宅400戸を焼失。突貫工事で復旧させ、年末には新選鉱場を操業。この頃が2度目のピークで、鉱山集落には2,000人もの人が暮らしていた。
昭和40年(1965)にも新鉱床が発見され、44年には鉱滓用沈殿ダムの完成を見たが、品位低下に加え、貿易自由化による輸入鉱石の増大とそれに伴う市況悪化により昭和46年(1971)に休山、48年に鉱区は廃棄された。
鉱山施設は昭和49年に東京の明星大学に研究施設(明星大学田老キャンパス)として譲渡され、宇宙線観測施設となったが、既に廃墟状態。従業員宿舎や選鉱場の一部は残されている。また閉山後もラサ工業により排水処理が続けられている。
時々
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます