(承前)
特急あずさ号は3時半過ぎに新宿に到着。そこから中央線に乗って阿佐ヶ谷で降りる。しかし、「降りる」には少々時間がかかった。ポケットに切符(松本→東京都区内)が見当たらなかったからだ。「落ち着け」と自分に言い聞かせつつ、すべてのポケット、鞄の中を探したが見当たらない。もう一度、探す。しかし、見つからない。どこかで失くしたのだという結論を受け容れざるを得ない。私にはよくあることだとはいえ、ショックであることにかわりはない。運賃、特急・指定席券代を合わせると7000円ほどになる。問題は財布にそれだけのお金がないことである。普段はもっと入っているのだが、旅行の最終段階ということで、ほぼ使い切ってしまっていたのだった。だから支払いをするためには改札の外に出て現金を引き出さないとならない。とにかく正直に申告するしかないと、改札の駅員さんに「すみません。切符を失くしてしまったようです」と言うと、「どちらからですか?」と聞かれた。「それが・・・松本からなんです」と答えると、「えっ?!松本からですか」と驚いたような表情になり、「わかりました。今度からは気を付けてくださいね」と言われた。最初、それが「改札を出てけっこうです」という意味だとはすぐにわからず、「実は財布の中に持ち合わせがないので、いったん外に出て現金を下ろして来たいのですが」と言い出すタイミングを見はからっていると、駅員さんはもう一度、今度は手で改札を通ってくださいというジャスチャーをしながら、「どうぞ出てけっこうです」と言った。私が正直に申告していること、そして困っていることが、私の表情、口調、風体から伝わったようである。失くした切符と同額のお金を支払わないとならないと思い込んでいた私は、「すみません。ありがとうございます」と心からの感謝を述べ、改札を出た。誰かの後にピッタリと着いて改札の外への脱出を図ったり、「新宿から乗りました」とかウソの申告をしなくて、本当によかった。正直者の頭(こうべ)に神宿る。
北口駅前。
5時から「ザムザ阿佐ヶ谷」という劇場で卒業生のサワチさん(論系ゼミ7期生)の出演する芝居があるのだが、開場の4時半まであと20分ほど時間があるので、お腹に軽く何か入れていこうと思う。
すぐそばにたこ焼の店があり、イートインができるようだったので、入ってみる。
たこ焼6個というのがあったので、それを注文する。
小腹が減ったときにちょうどよい量である。(しっかり食べてしまうと観劇中に居眠りが出る可能性がある)
劇場までは数分。飲み屋街を歩く。
「よるのひるね」という名前の店があった。「よるのひるね」・・・シュールで、魅力的なネーミングだ。私はよく夕食の後にソファーでうたた寝をする。布団に入ってしっかり仮眠をとることもある。そうすると深夜、冴えた頭で本を読んだり書きものをすることができる。これって「よるのひるね」かもしれない。
「あずさ」という名前の店があった。小料理屋やスナックの名前としてよく見かける名前だが(蒲田にもある)、その名前の特急についさっきまで乗っていたので、親しみを覚える。たぶん私の失くした切符は座席の下あたりに落ちているのだろう。
「ザムザ阿佐ヶ谷」に来るのは二度目だ。
建物を取り囲むように木が茂っている。
今日の芝居のタイトルは「泡雪屋廻墾譚」(脚本・演出:夢乃屋毒花)。「有末剛緊縛夜話」というシリーズの第18話である。怪しげな雰囲気の漂うポスターであるが、前回の第17話も私はここで観ている。そのときの芝居のタイトルは「銀河鉄道の夜―露ー」(脚本:西瓜すいか、演出:夢乃屋毒花)であった。趣を異にする芝居であるが、共通しているのは芝居の進行中に縄師の有末剛が舞台に現れて一人二人の女優を縄で縛る、さらには吊るすということをする点である。それは一見唐突な演出で、よく考えてもやはり唐突な演出ではあるのだが、縄で縛られ、吊るされる女優の表情や姿態は、苦痛と快楽、哀しみとエロチシズムに満ちていて、独特の演出効果を上げていることは確かだった。
今回の話は「泡雪屋」というソープランドが舞台である。そこで働く女たちは威勢がいい。彼女たちが踊り、歌う様は、焼け跡の娼婦たちを描いた田村泰次郎の小説『肉体の門』(1947年)のミュージカル版の趣がある。ただし、『肉体の門』の女たちが自らの肉体だけを頼りに焼け跡の中で力強く生きていくのに対して、「泡雪屋」の女たちは家族からも存在を否定されて自分を必要としてくれる他者を切実に求めている。その意味では、「イエスの方舟」事件で千石イエスという「おっちゃん」の周りに集まって共同生活をしていた女たちに似ている。「泡雪屋」は一種の共同体であったが、いくつかの色恋沙汰が引き金になって、最後は女将が泡雪屋に火を放って終わる。炎の中の女将の姿は五社英雄監督の映画『吉原炎上』の名取裕子のようであった。シリアスな芝居にしようと思えばいくらでもシリアスになりえる芝居であったが、むしろできるだけシリアスにならないように、最後はさすがにシリアスになるが、そのシリアスさを際立たせるためもあってか、途中はシリアスさをはぐらかすような演出がほどこされていた。たとえば舞台の中央で二人の遊女が自身の人生をシリアスに語っている最中に、傍らでは遊女と客がプロレスまがいの体位でセックスをしていたり、ほろ酔い加減の遊女が饒舌にどうでもよい話を大きな声でしていたり、中央のシリアスな会話に観客がじっと聞き入ることを困難にしていた。まるで「真面目なセリフって恥ずかしいよね」と脚本家自身が茶々を入れているみたいだった。
全8回公演だが、公演ごとに配役をシャッフルするという面白い試みがなさている。このことは役者は全部の役の台詞を覚えておく必要があるということである。また、役者(ほとんど女性)は年齢も身体的特徴(豊満かスリムか)も歌唱力にも違いがあるので、基本的な構造は同じ芝居でありながら、受ける印象は公演ごとに違ってくるだろうということである。私はその中の一回(千秋楽)を観たわけだが、他の回もDVDの映像があれば観てみたいと思った。私の観た回では、サワチさんは主役の娼婦の一番親しい友達みたいな役(準主役)をやっていた。2人とも「清純な娼婦」という印象だったのは、夢乃屋毒花さん率いる(?)「あんっ♡HappyGirlsCollection」のお姉さまたちの迫力(豊満な身体から匂い立つ色気)がすさまじかったからである。彼女らの一人は網タイツを着てビニールプールではしゃぎ、床の上をころがっていた。ほとんどストリップショーである。ひとつ前の回では、サワチさんがその役をやっていたそうなので、「君もあの網タイツを着たのですか?」とあとで彼女に尋ねたら、「いえ、私はドレスを着てやりました。あの網タイツはすごかったですよね」と答えていた。ここで鍛えられていれば、彼女もそのうちああいう演技ができるようになるのだろうか。なってほしいような、ほしくないような(笑)。
6時半ごろ終演。明かりの灯った飲み屋街を駅に向かった。昭和の時代にタイムスリップしたみたいな感覚だった。
東西線で東京まで行き、京浜東北線に乗り換える途中で、東京駅構内の本屋で『週刊東洋経済』を購入。普段は買わない雑誌だが、特集記事に引かれて。
蒲田駅に着いてから、「そば新」で食事。
天玉うどん+コロッケ。阿佐ヶ谷で食べたたこ焼との合わせ技でこれが本日の夕食だ。
8時前に帰宅。これにて今回の信州旅行は幕引きである。
12時半、就寝。