7時半、起床。
トースト、サラダ(トマト、レタス)、紅茶の朝食。
葬儀の段取りは昨日粗方決めたが、詰めの段階でちゃんと決めなくてはならないことがあれこれ残っている。ひとつひとつ確定していく。
大学の事務所に電話をして母の逝去についてお伝えする。お伝えするといっても、学内に訃報を流していただくためではなく、葬儀は親族、ご近所のみなさん、ご友人のみなさん、つまり生前母と面識のあった方々で行わせていただきますということをお伝えするためである。ただ、大学からの生花と総長からの弔電は、親孝行になるので、ありがたく頂戴することにした。母は息子が早稲田大学教授であることが自慢だったのである。
母の友人のSさんが娘さんを伴って焼香に来て下さった。母は若いころ(といっても中年の頃だが)東京ガスでパートで働いていたが、Sさんはその職場で出来た友人である。無二の親友といってもよい。入院中、とくに具合が悪くなってからは、見舞客にはあまり来てほしくなかったようだったが、Sさんは別格で、何度も来ていただいていた。Sさんは枕もとでずっと母に話しかけていた。
午後、銀行に寄ってから、病院へ入院代の支払いに行く。今回の一ヶ月余の入院代は50万円ほど。積極的な延命治療は行なわなかったので、大部分は差額ベット代である。
昼食は「いっぺこっぺ」というカツカレーの店に初めて入る。いつも行列が出来ているとんかつ屋「檍(あおき)」の隣の店で、「檍」のとんかつを使っているのが売りであるが、こちらは行列ができるほどではない。とんかつ好きの人からすると、カツカレーは傍流的なメニューなのだろう。
定番メニューのロスカツカレー(1000円)を注文する。カツは注文を受けてから、肉にパン粉をつけて、揚げる。しかも揚げ方は時間をかけてじっくりと。
出てきたカツカレーは、カツにカレーがかかっていない。うん、これでいいのだ。カツにカレーをかけて食べるかどうかは客に任せているわけだが、たぶんお店としてはカレーをかけない食べ方を推奨しているはずである。
その証拠にカウンターには二種類の岩塩が置かれている。美味いトンカツには塩が一番合うと私も思う。
美味しいロースかつである。大部分は塩で、最後から二切れ目だけソースをかけて食べた。カレーとの相性を考えた甘口にソースである。最後の一切れではなく、最後から二切れ目をソースで食べたのは、もし美味しくなかった場合、それが最後の一切れになってしまうのはいやだからである。ソースをかけても美味しかったが、最後の一切れはやっぱり塩で食べた。ごちそうさまでした。長い時間並んで「檍」で食べなくても、ここでいいんじゃないかな。
デザートは「まやんち」で(同じ通りにある)。
今日からメニューに出たチェリーを使ったケーキ、フォレ・ノアールと春摘みのダージリンを注文。
チェリーは新鮮なチェリーをコンポートした自家製で、ケーキの内部にも入っている。とてもまろやかな舌触りのケーキである。「これはいつまで食べられる(メニューに出ている)のですか?」と店長のまゆみさんに聞いたら、「大久保さんが毎週来ていただけるなら、4回食べられると思います」とのこと。わかりました。来週も参ります。
夏空に白く輝く雲が浮かんでいる。
死に消えてひろごる君や夏の空 三橋敏雄
俳句には追悼句というジャンルがあり、これがその例。「ひろごる」は「ひろがる」の意味である。火葬場の煙突から出ている煙を詠んだものだろう。
夕食はハヤシライス。サラダボールにのっているのはご近所のMさんが「お母様がお好きでしたよね」と言ってもってきてくださったハムカツである。
これは先週、慶応大学の有末賢先生から頂戴した澤井敦・有末賢『死別の社会学』(青土社)。ご恵投いただいた本はブログで紹介することにしているのだが、今回はあまりにタイムリーなタイトルなので、少し紹介を控えていた。
社会学はそれが社会的現象であればすべて研究対象にしてしまうが、そういう社会学者としての習い性が、身内の死の場合も働いて、対象から一定の距離をとって(悲しみに浸ることなく)それを見つめることをさせているのだろう。考えてみると、因果な職業である。