陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

724.野村吉三郎海軍大将(24)艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された

2020年02月07日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正七年九月二十九日、日本国に内閣制度が誕生してから、初めて無爵の政党人を首班とする純政党内閣が誕生した。

 大正七年十月十八日付けで、野村吉三郎大佐は、重巡洋艦「八雲」(九六九五トン・乗員六四八名)の艦長に転補され、久しぶりの海上勤務に出た。また、初めての艦長勤務であった。

 だが、野村吉三郎大佐は、重巡洋艦「八雲」(九六九五トン・乗員六四八名)の艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された。

 さらに十二月三日には、野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席する全権大使に随行する海軍側委員を命ぜられた。

 大正八年一月十八日から開催されたパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)への、日本の主要な出席者は、次の通り。

 首席全権大使・西園寺公望(さいおんじ・きんもち)元首相(京都・学習院・官軍参与・戊辰戦争・会津戦争・新潟府知事・開成学校・フランス・ソルボンヌ大学留学・侯爵・駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使・駐ベルリン・ドイツ帝国公使兼ベルギー公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・文部大臣・外務大臣・文部大臣・政友会総裁・内閣総理大臣臨時代理・枢密院議長・内閣総理大臣・パリ講和会議全権・公爵・昭和十五年十一月二十四日死去・享年九十歳・国葬・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

 次席全権大使・牧野伸顕(まきの・のぶあき)元外相(鹿児島・東京帝国大学中退・外務省・首相秘書官・福井県知事・茨城県知事・文部次官・イタリア公使・オーストリア公使・文部大臣・男爵・外務大臣・貴族院勅選議員・パリ講和会議次席全権・子爵・宮内大臣・内大臣・伯爵・昭和二十四年一月二十五日死去・享年八十七歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・フランスドラゴンドランナン勲章グランクロア)。

 駐英大使・珍田捨巳(ちんだ・すてみ・青森・米国アスベリー大学<現・デボー大学>卒・メソジスト弘前教会副牧師・外務省・イギリス・清国・オランダ書記官・領事・総領事・在サンフランシスコ日本領事・初代外務次官・外務総務長官・外務次官・男爵・子爵・ブラジル公使・オランダ公使・ロシア公使・ドイツ大使・駐米特命全権大使・イギリス大使・パリ講和会議全権委員・伯爵・枢密顧問官・東宮大夫・侍従長・昭和四年一月十六日脳出血で死去・享年七十三歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 駐仏大使・松井慶四郎(まつい・けいしろう・大阪・東京帝国大学法科大学英法科卒・外務省・イギリス公使館一等書記官・フランス参事官・外務次官・フランス大使・パリ講和会議全権委員・男爵・外務大臣・貴族院議員勅選議員・イギリス大使・枢密顧問官・昭和二十一年六月四日死去・享年七十八歳・男爵・正二位・勲一等旭日大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 外務省側の委員は次の通り。

 松岡洋介(まつおか・ようすけ)書記官(山口・アメリカ・オレゴン大学法学部卒・外務省・中華民国領事官補・首相秘書官・パリ講和会議随員・中華民国総領事・外務省退官・南満州鉄道理事・衆議院議員・国際連盟日本首席全権・南満州鉄道総裁・外務大臣・終戦・A級戦犯・昭和二十一年六月二十一日結核で病死・享年六十六歳・従三位・勲一等旭日大綬章・ロシア帝国神聖スタニスラス第二等勲章等)。

 佐分利貞男(さぶり・さだお)書記官(福山・東京帝国大学法科大学仏法科卒・外務省・外交官補・清国・ロシア・フランス駐在・外務省参事官・パリ講和会議全権委員随員・大使館参事官・通商局長・条約局長・駐支那公使・昭和四年十一月二十九日自殺<他殺疑惑>・享年五十歳・勲三等旭日中綬章)。

 吉田茂(よしだ・しげる)書記官(東京・東京帝国大学法科大学政治科卒・外務省・領事館補・奉天領事館・在米大使館附二等書記官・文書課長心得・済南領事・パリ講和会議随員・在英大使館附一等書記官・奉天総領事・駐スウェーデン公使・外務次官・駐イタリア大使・外務省退官・終戦・外務大臣・貴族院議員・内閣総理大臣(一次)・日本自由党総裁・衆議院議員・民主自由党総裁・内閣総理大臣(二次~五次)・政界引退・昭和四十二年十月二十日死去・享年九十歳・従一位・大勲位菊花章頸飾)。

 木村鋭市(きむら・えいいち)書記官(島根・東京帝国大学法科大学政治科卒・外務省・外交官補・外務省参事官・ベルギー公使館三等書記官・フランス大使館二等書記官・パリ講和会議全権委員随員・亜細亜局課長・ワシントン会議全権委員随員・アメリカ合衆国大使館一等書記官・同参事官・亜細亜局長・駐チェコスロバキア公使・南満州鉄道株式会社理事・第一次日蘭会商代表・忠清工業株式会社社長・台湾拓殖株式会社顧問・昭和二十二年七月二十一日死去・享年六十八歳)。