だが、この後大目玉が飛ぶのを覚悟していた小高達に源田大佐は次のように言った。
「士気高揚のためだ。大いに暴れろ。後の責任は一切司令がとる」。この一言で感激した小高達は、大いに奮起して戦闘に臨んだ。
昭和二十年八月十五日、終戦となった。「天皇は支那(中国)に連れて行かれ、皇族は全員死刑、皇太子はアメリカに連行される。職業軍人は重労働、婦女子はアメリカ兵に凌辱される」といったうわさが流れた。
一方では、厚木航空隊事件など、一部の航空隊が徹底抗戦を叫ぶなど、国内は混乱の極みにあった。陸軍では宮城事件なども起きた。
厚木航空隊事件は、厚木海軍飛行場で、第三〇二海軍航空隊の司令・小園安名(こぞの・やすな)大佐(鹿児島・海兵五一・少佐・第一二航空隊飛行隊長・空母「鳳翔」飛行長・中佐・台南航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊司令・第三〇二海軍航空隊司令・東條英機暗殺計画に参加・兼横須賀鎮守府参謀・大佐・兼第三艦隊参謀・兼第七一航空戦隊参謀・厚木航空隊事件の党与抗命罪で無期禁錮・失官)が起こした騒乱事件だ。
小園大佐は、後に軍法会議にかけられ、党与抗命罪となり、失官、海軍大佐を剥奪された。
党与抗命罪とは、海軍刑法第五十六条で、徒党をなして命令違反を起こした罪。
そんな終戦の混乱の中、八月十七日、源田実大佐は軍令部から「至急上京せよ」との連絡を受けた。源田大佐は、紫電改で横須賀に飛び、そこから電車で東京の軍令部に出頭した。
軍令部に着くと、軍令部作戦部長・富岡定俊(とみおか・さだとし)少将(広島・男爵・海兵四五・二十一番・海大二七・首席・第二艦隊参謀・海軍大学校教官・軍令部第一部第一課長・二等巡洋艦「大淀」艦長・南東方面艦隊参謀副長・少将・南東方面艦隊参謀長・軍令部第一部長・終戦・第二復員省大臣官房史実調査部長・著書「開戦と終戦」)から次のような重要な任務を受けた。
それは、万一、無条件降伏によって、天皇はじめ皇族が戦犯として処刑された場合、陛下の血筋を絶やさないように、皇族のどなたかを密かにかくまってお守りするという、皇統護持の密命だった。軍資金も渡された。
大村基地に帰った源田大佐は、対策を練り、決死の同志二十三名を募り、候補地となった九州の熊本県五家荘村を中心に展開し、密命を帯びた隊員たちは、赤穂の四十七士のように、様々な仕事に就いてその時を待った。
源田大佐も一時期、部下と共に長崎県川南の炭鉱で採炭夫として働いたが、統制のよくとれた働きぶりで、群を抜く採炭実績を上げ、「さすが海軍さんは違う」と称賛を浴びた。
昭和二十一年に入ると、敗戦の混乱も落ち着き、やがて天皇が戦犯に問われることもなく、皇族も何事もない事が判明し、この秘密任務は自然消滅した。
昭和二十八年源田実は防衛庁に入り、航空幕僚監部装備部長に就任した。その後、航空自衛隊航空団司令を経て、昭和三十一年臨時航空訓練部長、空将。航空集団初代司令、航空総隊司令を歴任した。
昭和三十三年航空自衛隊のF86F「セイバー」の後継次期戦闘機、FX機種選定問題が起こり、当時の航空幕僚長・佐薙毅(さなぎ・さだむ)空将(愛媛・海兵五〇・海大三二・連合艦隊航空参謀・軍令部第一部第一課作戦班長・大佐・南東方面艦隊首席参謀・戦後航空自衛隊幕僚副長・第二代航空幕僚長)が渡米して調査を行った。
佐薙空将の報告に基づいて防衛庁が出した結論は、グラマン社がアメリカ海軍向けに開発したグラマンF11F「スーパータイガー」を可とするというものだった。
最終的に絞られた候補機は、グラマンF11F「スーパータイガー」と、ロッキードF104A「スターファイター」の二機種だった。
「F104Aは上昇性能と加速性に優れているが、安全性に劣る。F11Fは行動半径、全天候性、多用途性に優れ、かつ長期にわたって使える可能性が高い」というのが防衛庁の決定の理由だった。
だが、この機種選定問題は政治問題に発展しており、この決定には巨額の金が裏で動いたと言われていた。
おさまらないのは、河野一郎(こうの・いちろう)経済企画庁長官(神奈川・早稲田大学政治経済学部政治学科卒・朝日新聞入社・山本悌二郎農林大臣秘書官・衆議院議員・戦後公職追放・衆議院議員・自由党入党・日本民主党を結成・農林大臣・自由民主党・経済企画庁長官・党総務会長・農林大臣・建設大臣・オリンピック担当国務大臣・国務大臣兼無任所大臣)らのロッキード派だった。
彼らは、政商で政界の黒幕であった児玉誉士夫(こだま・よしお・福島・京城商業専門学校卒・向島の鉄工所・右翼団体「建国会」・天皇直訴事件・「国粋大衆党」・海軍嘱託・上海で児玉機関運営・戦後全日本愛国者団体会議・右翼団体「日本青年社」)を担ぎ出して、国防会議での決定を「内定」にとどめさせると共に、巻き返しに乗り出した。
「士気高揚のためだ。大いに暴れろ。後の責任は一切司令がとる」。この一言で感激した小高達は、大いに奮起して戦闘に臨んだ。
昭和二十年八月十五日、終戦となった。「天皇は支那(中国)に連れて行かれ、皇族は全員死刑、皇太子はアメリカに連行される。職業軍人は重労働、婦女子はアメリカ兵に凌辱される」といったうわさが流れた。
一方では、厚木航空隊事件など、一部の航空隊が徹底抗戦を叫ぶなど、国内は混乱の極みにあった。陸軍では宮城事件なども起きた。
厚木航空隊事件は、厚木海軍飛行場で、第三〇二海軍航空隊の司令・小園安名(こぞの・やすな)大佐(鹿児島・海兵五一・少佐・第一二航空隊飛行隊長・空母「鳳翔」飛行長・中佐・台南航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊司令・第三〇二海軍航空隊司令・東條英機暗殺計画に参加・兼横須賀鎮守府参謀・大佐・兼第三艦隊参謀・兼第七一航空戦隊参謀・厚木航空隊事件の党与抗命罪で無期禁錮・失官)が起こした騒乱事件だ。
小園大佐は、後に軍法会議にかけられ、党与抗命罪となり、失官、海軍大佐を剥奪された。
党与抗命罪とは、海軍刑法第五十六条で、徒党をなして命令違反を起こした罪。
そんな終戦の混乱の中、八月十七日、源田実大佐は軍令部から「至急上京せよ」との連絡を受けた。源田大佐は、紫電改で横須賀に飛び、そこから電車で東京の軍令部に出頭した。
軍令部に着くと、軍令部作戦部長・富岡定俊(とみおか・さだとし)少将(広島・男爵・海兵四五・二十一番・海大二七・首席・第二艦隊参謀・海軍大学校教官・軍令部第一部第一課長・二等巡洋艦「大淀」艦長・南東方面艦隊参謀副長・少将・南東方面艦隊参謀長・軍令部第一部長・終戦・第二復員省大臣官房史実調査部長・著書「開戦と終戦」)から次のような重要な任務を受けた。
それは、万一、無条件降伏によって、天皇はじめ皇族が戦犯として処刑された場合、陛下の血筋を絶やさないように、皇族のどなたかを密かにかくまってお守りするという、皇統護持の密命だった。軍資金も渡された。
大村基地に帰った源田大佐は、対策を練り、決死の同志二十三名を募り、候補地となった九州の熊本県五家荘村を中心に展開し、密命を帯びた隊員たちは、赤穂の四十七士のように、様々な仕事に就いてその時を待った。
源田大佐も一時期、部下と共に長崎県川南の炭鉱で採炭夫として働いたが、統制のよくとれた働きぶりで、群を抜く採炭実績を上げ、「さすが海軍さんは違う」と称賛を浴びた。
昭和二十一年に入ると、敗戦の混乱も落ち着き、やがて天皇が戦犯に問われることもなく、皇族も何事もない事が判明し、この秘密任務は自然消滅した。
昭和二十八年源田実は防衛庁に入り、航空幕僚監部装備部長に就任した。その後、航空自衛隊航空団司令を経て、昭和三十一年臨時航空訓練部長、空将。航空集団初代司令、航空総隊司令を歴任した。
昭和三十三年航空自衛隊のF86F「セイバー」の後継次期戦闘機、FX機種選定問題が起こり、当時の航空幕僚長・佐薙毅(さなぎ・さだむ)空将(愛媛・海兵五〇・海大三二・連合艦隊航空参謀・軍令部第一部第一課作戦班長・大佐・南東方面艦隊首席参謀・戦後航空自衛隊幕僚副長・第二代航空幕僚長)が渡米して調査を行った。
佐薙空将の報告に基づいて防衛庁が出した結論は、グラマン社がアメリカ海軍向けに開発したグラマンF11F「スーパータイガー」を可とするというものだった。
最終的に絞られた候補機は、グラマンF11F「スーパータイガー」と、ロッキードF104A「スターファイター」の二機種だった。
「F104Aは上昇性能と加速性に優れているが、安全性に劣る。F11Fは行動半径、全天候性、多用途性に優れ、かつ長期にわたって使える可能性が高い」というのが防衛庁の決定の理由だった。
だが、この機種選定問題は政治問題に発展しており、この決定には巨額の金が裏で動いたと言われていた。
おさまらないのは、河野一郎(こうの・いちろう)経済企画庁長官(神奈川・早稲田大学政治経済学部政治学科卒・朝日新聞入社・山本悌二郎農林大臣秘書官・衆議院議員・戦後公職追放・衆議院議員・自由党入党・日本民主党を結成・農林大臣・自由民主党・経済企画庁長官・党総務会長・農林大臣・建設大臣・オリンピック担当国務大臣・国務大臣兼無任所大臣)らのロッキード派だった。
彼らは、政商で政界の黒幕であった児玉誉士夫(こだま・よしお・福島・京城商業専門学校卒・向島の鉄工所・右翼団体「建国会」・天皇直訴事件・「国粋大衆党」・海軍嘱託・上海で児玉機関運営・戦後全日本愛国者団体会議・右翼団体「日本青年社」)を担ぎ出して、国防会議での決定を「内定」にとどめさせると共に、巻き返しに乗り出した。