陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

451.乃木希典陸軍大将(31)乃木は腹を切れ、腹を切らせろ!

2014年11月14日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木大将はついに攻撃を断念せざるを得なかった。二十四日の夜、乃木大将は、連合艦隊司令長官・東郷大将に対して、「軍は今日までの激戦において、ほとんど一万以上の兵力を失い、いかに比類なき勇気も強襲的戦闘をもってしては、とうてい精鋭なる機械をもって要塞を守る敵を屈する能わざるを実験せり」と、攻撃を一たん中止せざるを得ない旨の通知を出した。

 この第一次旅順総攻撃に参加した日本陸軍将兵は約五〇七〇〇名、そのうちの三分の一に近い一五八〇〇余名が戦死した。第一次総攻撃は無残な失敗に終わったので、乃木大将は、強襲は打ち切り、正攻法の攻撃に移ることを決定した。

 
 正攻法に移るというので、大本営から第三軍司令部に派遣されていた参謀・上泉徳弥(かみいずみ・とくや)中佐(山形・海兵一二・丙号学生・佐世保海兵団副長・海軍中佐・竹敷要港部第二水雷施設隊司令・軍令部副官・日露戦争で大本営運輸通信部参謀・浪速艦長・大佐・生駒艦長・薩摩艦長・少将・大湊要港部司令官・横須賀水雷隊司令官・第一艦隊司令官・中将・予備役・国風会会長)が引き揚げることになった。

 その際、上泉参謀が「私はこれから連合艦隊を訪問して、東郷司令長官にもご挨拶申し上げるつもりですが、何かご伝言がございますか」と言うと、乃木大将は「あなたが、目撃されたありのままをお伝えください。今回はやむを得ず中止しましたが、海軍の絶大なるご協力に感謝します。今後は正攻法でやるので、左様ご承知ください、とお伝えください」と言った。

 さらに、上泉参謀が「旅順陥落までにあと何日ぐらい要しますか。連合艦隊としてもそれが分れば大いに便利でしょうから」と尋ねると、乃木大将は「私にもわかりません。はっきり言えることは、ここ十日や二十日では陥落しないということだけです」と答えた。

 上泉参謀が、三笠の東郷司令長官を訪ねて、そのことを伝えると、東郷司令長官は、例の大きな目をギョロッと光らせたが、「戦だから仕方がないね」と一言、言っただけだった。そこで上泉参謀が「では、今後はどうなさいますか」と問いかけると、「どうもこうもあるものかね。このままさ」と平然として答えたという。

 正攻法は、地下道を掘って、できるだけ敵陣の近くまで前進し、いよいよというところで突撃に移るというものだった。九月一日から工兵隊が作業に取り掛かり、十七日に塹壕路はようやく完成した。

 その頃、海軍側はしきりと二〇三高地を攻略してもらいたいと言ってきた。その高地からは旅順港が見渡せるので、港内の敵艦を砲撃する観測所を設けることができると言うのだった。

 これにより第二次総攻撃はまず二〇三高地から攻撃することになった。九月十九日にその前哨戦の火ぶたが切られた。二〇三高地を大したものと考えていなかった第三軍司令部は、第一師団から一個連隊だけをさいて、攻撃に当たらせた。

 だが、攻撃の連隊はバタバタ打ち倒れて、少しも前進できなかった。十九日の夜までにすでに連隊の半数は戦死していた。そこで、第一師団の予備隊の全兵力と中央部隊からの一部をさいて、攻撃に投入した。

 激闘の末、二十日未明、二〇三高地の一角を占領したが、ロシア軍の猛反撃にあい、占領軍は全滅し、再び二〇三高地はロシア軍に取り返された。その後、砲撃や肉弾戦が繰り返されたが、二〇三高地は落ちなかった。

 まさに、二〇三高地は旅順攻略戦の、天王山となった。十月になっても二〇三高地は落ちなかった。攻撃は繰り返され、十一月になった。

 このころ、国内では、軍人や国民の間に、乃木大将の戦法を非難する声が出始めた。旅順が落ちないうちに、ロシアのバルチック艦隊が来たら、いかに名将・東郷司令長官でも苦戦に陥ることは間違いなかった。

 国内の軍人、政治家、国民たちの中から、「乃木が悪いんだ。あんな軍司令官を取り替えて、もっと戦争のうまい指揮官にしろ!」「乃木は兵隊ばかり殺して、自分は何をしているのだ!」「乃木は腹を切れ、腹を切らせろ!」と言う声がいたるところに出始めた。

 激昂した市民たちの一部は、新坂町の乃木邸に押し寄せ、毎夜のように、投石を繰り返した。石は窓ガラスを割り、屋根瓦を砕いた。

 旅順が落ちないのは、乃木大将だけの責任ではなかった。旅順という大要塞をあまく見て、それだけの準備をしなかった大本営にこそ本当の罪があり、それだけの兵力を与えなかった満州軍総司令部にも罪があった。

 連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将は、乃木大将の苦衷をしっていたが、それでも、大本営に対して、二〇三高地の陥落を要求せざるを得なかった。

 大本営でも、乃木大将を更迭しようという話が出ていた。だが、明治天皇が「乃木をかえてはならぬ」と仰せられたのだった。