陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

359.辻政信陸軍大佐(19)あなたのように薄汚いジイさんがくると、票が減るからです

2013年02月07日 | 辻政信陸軍大佐
 終戦とともに、辻政信は戦犯の追及を逃れるため、潜伏した。戦後、潜伏から現れた辻政信は、国会議員として、政治家の道を歩んだ。

 だが、その政治の道で、大物の実力者、岸信介(きし・のぶすけ・明治二十九年山口県生まれ・東京帝国大学法学部卒・農商務省・商工省・商工省工務局長・満州国国務院実業部総務司長・総務庁次長・満州国国務院総務長官・商工次官・商工大臣・衆議院議員・戦後公職追放・自由民主党初代幹事長・外務大臣・内閣総理大臣)が、辻の前に立ちはだかった。

 辻政信と岸信介のつながりは古い。「謀略の秘図・辻政信」(牛島秀彦・毎日新聞社)によると、辻が満州で若手参謀として活躍していたころ、岸は商工省工務局長から、満州国産業部長に赴任してきた。

 その当時は二人の仲は良かったが、岸信介がA級戦犯を解かれて政界に返り咲き、瞬く間に政界復帰どころか、民主党幹事長となったころから、辻は次第に反岸になっていった。

 昭和三十年三月、辻政信は衆議院議員選挙で第三回目の当選を果たした。五十三歳だった。このときのいきさつが、「これでよいのか」(辻政信・有紀書房)に次のように記してある。

 私(辻政信)は四回の選挙で、二回は無所属であった。第三回目は民主党結成の直後であり、初めて政党の公認として鳩山総裁の下に選挙戦に臨んだが、当時の公認料は百万円を最高とし、七十万と五十万に格付けされたらしい。

 貧乏代議士は百万円だとウワサが立った。選挙に出発する前の日に、党本部に党の公認証書をもらいにいった。

 二階の室で岸幹事長に挨拶したとき、十数人の候補がつめかけていた。「明日から選挙区に帰ります」と挨拶すると、岸幹事長は証書とともに新聞紙に包まれた四角いものを無造作に渡した。

 「これが君の公認料だ」と。ひねくれ者の私には、その態度が気に入らなかった。女中にチップでも渡すような素振りである。

 持前のカンシャク玉が破裂しかかった。「おことわりします」。岸幹事長は驚いた顔で席を起った。「どうしてか。金がなくて選挙ができるか」。

 「刀を売ったり、友人の援助で六、七十万できました。それだけでやってきます」。

 「そういうなよ君、満州時代からの友人だ。公認料がいやなら、僕のポケットマネーとして受け取ってくれよ」。

 「あなたに、そんなポケットマネーがあるとは思いません。ほかの足りない同志の人にやってください。法定費用でやって来ますから」と、幹事長の好意をことわって帰った。

 議事堂内の食堂で最後の食事をしていたとき、総務会長の三木老(三木武吉)が和服姿でノッソリやってきて私の前に座られた。

 「辻君、君は公認料を辞退したそうだなあ。金がなくては選挙はできん。それをとらないなら、僕の身体をやる。君の応援に一週間行くよ」。

 真剣な表情だ。だが、二月の石川県は吹雪の最中だ。この寒さに、この老人を病気にしてはと考えて、

 「折角ですが、御免こうむります」

 「なぜか」

 「あなたのように薄汚いジイさんがくると、票が減るからです」

 「何! 票が減る!」

 さすがに古狸の眼が異様に光った。大先輩の好意を踏みにじる若輩の無礼な態度にさすがの狸爺さんも激怒したらしい。

 その時の選挙は無我夢中であった。公認料を蹴っ飛ばし、先輩の応援をはねつけて、初めから終わりまで。街頭演説も個人、立会演説もただ一人でやり抜いた。

 捨て身の戦いは予期以上の成果で報いられ、二十四、五万票の中、約八万五千票で空前の得票率を示した。

 終わって上京し、まず本部に挨拶したとき、幹事長の表情には冷たいものがあった。総務会長室で三木老に挨拶したとき、老は何もいわずに手を固く握って涙をこぼされた。