陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

354.辻政信陸軍大佐(14)『戦争は全くおもしろくなって来ましたね』と言って高笑いした

2013年01月03日 | 辻政信陸軍大佐
 以上「ガダルカナル」の文中に「K少将」とあるのは、川口少将のことだ。一方、川口少将の手記「真書ガダルカナル」にはこの事件について、次のように記してある。まず、田村大隊の件について。

 「辻手記はこの際支隊長たる私が自ら陣頭に立って田村大隊の戦果を拡大すべきだったとしているが、遺憾ながら田村大隊のこの情況は大隊が帰ってから後、初めて聞いたことである。仮に適時に聞いていたとしても前記の様に、私は一兵の予備隊も持っていなかったのである」。

 以上川口少将の記事が、ごまかしや言い訳でないことは、当時の状況が明らかになっている今日、はっきりしている。次に「単身、ラポールに戦況報告に帰還した」ことについては、川口少将は次のように述べている。

 「軍司令官からは、私が舟艇機動に付屢々(しばしば)意見具申したこと、マタニコウ川左岸に移って以来作戦上に関する意見の相違等に付き、大層御不興を蒙った。然し之は国家の為を思えばこそ、自己の所信を開陳したのだから致し方ない」

 「私は次の作戦には十分糧食、弾薬を用意すること、之が為には前の様に急がれずに、やって貰いたい。十一月三日明治節を目途にして攻撃開始されたい。又地図がなくて困ったから、航空写真をとり戦場付近のものを相当数下付せられたいと御願いした」

 「又々辻手記で恐れ入るが、彼の手記によると私のラバウル行きを、何か勝手に来て、弱音を吐いた様に書いてあるが、それは前記の通り、軍命令に依って招致されたことを付記しておく」。

 次に、ヘンダーソン米軍飛行場の奪回作戦のことについて、「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、戦後、川口元少将は、中村明人元中将と著者、堀江芳孝元少佐の二人に次のように語った。

 「丸山中将隷下での兵力は、右翼隊が川口少将の指揮する部隊、左翼隊は那須少将の指揮する部隊で、その下に若松の歩兵第二九連隊があり、古宮大佐が連隊長だった」

 「部隊が前進を始めて間もなく、川口は偶然辻に会った。『ああ辻君に会えてよかった。小沼の計画はうまくいかないぞ、オレの右翼隊は九月にオレがやった場所と殆ど同じ場所で攻撃することになる。山がけわしくて正面攻撃に向かないよ。海軍が撮った航空写真を君は見たかね。米軍の最近の防備強化はすごいぞ。正面攻撃は無理だ。オレは東側面から敵の背後に迂回したい。その付近の地形は自分が見てよく知っている。山がなだらかで、行動が容易だ。那須部隊が計画通り攻撃すれば、ちょうど米軍をハサミ撃ちすることができる』と言った」

 「すると辻は『写真を見る必要はありません。私も地形をよく知っており、閣下の提案に全面的に同意します』と答えた」

 「川口が『私が師団長のところに具申に行きたい』と言うと、辻は『その必要はありません。私から直接丸山閣下に説明しましょう。武運を祈ります』と言い辻は手を差し出した」

 「そして『戦争は全くおもしろくなって来ましたね』と言って高笑いした。あとで分かったことだが、辻はこの件を丸山中将に一言半句も伝えていなかった」

 以上の話は、筆者の堀江芳孝元少佐が、新橋の森ビルにある中村明人元中将(なかむら・あけと・愛知県出身・陸士二二・陸大三四恩賜・大佐・人事局恩賞課長・少将・第三軍参謀長・軍務局長・兵務局長・中将・第五師団長・憲兵司令官・タイ駐屯軍司令官・第一八方面軍司令官・戦後日南産業社長)が社長をしている日南産業での昼食で川口清健元少将から直接聞いたものだった。

 川口元少将は昼食をそっちのけで、当時の回顧談を溢れる涙を払いながら語った。「私は辻にやられました」と言った。

 中村元中将も「辻というのはそんな男だ」と言って、もらい泣きしていた。川口元少将によると、解任のときの状況は次のようなものだった。

 豪雨に見舞われ、丸山中将の指揮する部隊は前進が遅れた。そこで総攻撃が一日延期された。十月二十三日朝、態勢が整わないので三度攻撃の延期を決定し、翌日の夜半に攻撃を開始することに決した。

 川口少将は二十三日昼過ぎにこの命令を受け取った。しかし、攻撃発起点まで一日半以上もの距離が残っていた。

 川口少将は丸山中将に緊急電話で「攻撃に間に合いません」と報告した。丸山中将は「これ以上遅らせるわけにはいかぬ」と答えた。