中国大陸では、革命軍の上海や南京占領、蒋介石の反共クーデター、満州から北京へと出てきた大軍閥の頭領張作霖の大元帥就任と、嵐の前といった情勢だった。
昭和二年四月に内閣を組織した元陸軍大将・田中義一首相(陸士旧八・陸大八・男爵)は、この中国に対して。猛烈な強硬策をとった。
「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、田中義一首相は、組閣後一ヵ月後の五月に中国山東省に出兵(第一次山東出兵)し、国民革命軍の北上を防ごうとする態度をとり、六月の東方会議で、満州と内蒙古を中国から切り離し、日本の支配下におこう、とする国家方針を公認した。
昭和三年四月にはまた山東省に出兵した(第二次山東出兵)。五月、いよいよ蒋介石軍が済南に迫ること必須とみた田中内閣は、青島に上陸待機していた日本陸軍を済南に進め、原因不明の戦闘を惹起させ、全世界を驚かせた。
天皇裕仁は鎮痛した。海外出兵し、済南では中国側死傷者四千以上という戦闘がおき、中国民衆を憤激させ、全土に渡り猛烈な半日運動を巻き起こした。
出兵の裁可を求めて参内した田中首相と参謀総長・鈴木荘六大将(陸士一・陸大一二・帝国在郷軍人会長)を待たせ、天皇は書類に署名をしようとし、筆に墨をふくませたが、ふと手をとめて黙読した。
再び筆を近づけたが、途中でやめ、ついに筆を硯箱に戻した。そして双眼をつぶりじっと考え込んだ。侍立する侍従武官長・奈良武次陸軍大将(陸士旧一一・陸大一三・男爵)の耳には、かすかに独語する天皇の声が聞えた。
「これでいいのか……いいのか……本当に、いいのか」。
それほどまでに憂慮したうえで決定した海外出兵だった。それがついに蒋介石軍との交戦となり、事態は天皇の憂慮したように悪い方へと向かった。
そればかりではなかった。その後一ヵ月も経たない六月四日、天皇の目をみはらせる意外事が発生した。張作霖将軍の爆死事件だった。
のちに関東軍の謀略と判明するのだが、その遠因に田中内閣の施策に対する鈴木貫太郎軍令部長の強硬な反対意見があったのである。
国民革命軍が北京に迫るにおよんで、田中内閣は「戦禍が満州に及ぶときは、治安維持のため、有効な措置をとる」と言明、これに中国国民政府は内政干渉だと反駁(はんばく)した。
日本帝国陸軍は、これに対して第九師団を中満国境の山海関に派遣することを決意し、政府もまた同意する意向を示した。
それを第三班長の米内光政少将(海兵二九・海大一二・大将・海相・首相)から聞かされた鈴木貫太郎軍令部長は、ただちに海相・岡田啓介大将(海兵一五・海大二・首相)に談じ込んで、次の様に言った。
「内閣が事情やむなしと派兵を実行するなら、英米から抗議の来ることを覚悟しておかねばならない。それを強硬に突っぱねれば、事態は悪化し、英米と最悪の関係に陥らぬとも限らない」
「自分は政治の決定には従うつもりであるが、断行するなら、かねて軍令部が要求している弾薬、水雷などの補充をこのさい至急に解決してもらいたい」
「そうして十分に戦争準備をしておかねばならぬ。それには経費五千万円を要する。政府に要求しこれはぜひとも獲得してもらいたい。それなら軍令部は文句を言わぬ」。
山海関出兵の及ぼす国際情勢の悪化を見抜いているあたり、鈴木軍令部長の国際感覚の確かさが感じられる。それを統帥部は政治に干与しないという軍人の本分を、鈴木軍令部長は厳重に守っている。
結局、岡田海相が、田中首相にねじこんで、山海関出兵は中止された。
だが、満蒙防衛の責任を負う陸軍と関東軍の戦略観は、内閣や海軍と違っていた。それならば、いかにして国民革命軍の北上を阻止するか。
国民革命軍と対抗する張作霖軍の弱体を知っていればこそ、思い切って張作霖を退け、むしろ日本軍との衝突を引き起こし、それに乗じて一気に奉天を占領、満州を制圧してしまおう。それが張作霖爆殺の目的だった。
陸軍出身の田中首相は、さすがに張作霖爆死を一応は疑ったが、「まさか……オラの後輩の陸軍軍人にこんなバカなことをする者は、おるとは思えない」と、天皇の心配を伝えた奈良武官長に言った。天皇は微笑して、奈良武官長の報告を聞き、心から安堵した。
昭和二年四月に内閣を組織した元陸軍大将・田中義一首相(陸士旧八・陸大八・男爵)は、この中国に対して。猛烈な強硬策をとった。
「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、田中義一首相は、組閣後一ヵ月後の五月に中国山東省に出兵(第一次山東出兵)し、国民革命軍の北上を防ごうとする態度をとり、六月の東方会議で、満州と内蒙古を中国から切り離し、日本の支配下におこう、とする国家方針を公認した。
昭和三年四月にはまた山東省に出兵した(第二次山東出兵)。五月、いよいよ蒋介石軍が済南に迫ること必須とみた田中内閣は、青島に上陸待機していた日本陸軍を済南に進め、原因不明の戦闘を惹起させ、全世界を驚かせた。
天皇裕仁は鎮痛した。海外出兵し、済南では中国側死傷者四千以上という戦闘がおき、中国民衆を憤激させ、全土に渡り猛烈な半日運動を巻き起こした。
出兵の裁可を求めて参内した田中首相と参謀総長・鈴木荘六大将(陸士一・陸大一二・帝国在郷軍人会長)を待たせ、天皇は書類に署名をしようとし、筆に墨をふくませたが、ふと手をとめて黙読した。
再び筆を近づけたが、途中でやめ、ついに筆を硯箱に戻した。そして双眼をつぶりじっと考え込んだ。侍立する侍従武官長・奈良武次陸軍大将(陸士旧一一・陸大一三・男爵)の耳には、かすかに独語する天皇の声が聞えた。
「これでいいのか……いいのか……本当に、いいのか」。
それほどまでに憂慮したうえで決定した海外出兵だった。それがついに蒋介石軍との交戦となり、事態は天皇の憂慮したように悪い方へと向かった。
そればかりではなかった。その後一ヵ月も経たない六月四日、天皇の目をみはらせる意外事が発生した。張作霖将軍の爆死事件だった。
のちに関東軍の謀略と判明するのだが、その遠因に田中内閣の施策に対する鈴木貫太郎軍令部長の強硬な反対意見があったのである。
国民革命軍が北京に迫るにおよんで、田中内閣は「戦禍が満州に及ぶときは、治安維持のため、有効な措置をとる」と言明、これに中国国民政府は内政干渉だと反駁(はんばく)した。
日本帝国陸軍は、これに対して第九師団を中満国境の山海関に派遣することを決意し、政府もまた同意する意向を示した。
それを第三班長の米内光政少将(海兵二九・海大一二・大将・海相・首相)から聞かされた鈴木貫太郎軍令部長は、ただちに海相・岡田啓介大将(海兵一五・海大二・首相)に談じ込んで、次の様に言った。
「内閣が事情やむなしと派兵を実行するなら、英米から抗議の来ることを覚悟しておかねばならない。それを強硬に突っぱねれば、事態は悪化し、英米と最悪の関係に陥らぬとも限らない」
「自分は政治の決定には従うつもりであるが、断行するなら、かねて軍令部が要求している弾薬、水雷などの補充をこのさい至急に解決してもらいたい」
「そうして十分に戦争準備をしておかねばならぬ。それには経費五千万円を要する。政府に要求しこれはぜひとも獲得してもらいたい。それなら軍令部は文句を言わぬ」。
山海関出兵の及ぼす国際情勢の悪化を見抜いているあたり、鈴木軍令部長の国際感覚の確かさが感じられる。それを統帥部は政治に干与しないという軍人の本分を、鈴木軍令部長は厳重に守っている。
結局、岡田海相が、田中首相にねじこんで、山海関出兵は中止された。
だが、満蒙防衛の責任を負う陸軍と関東軍の戦略観は、内閣や海軍と違っていた。それならば、いかにして国民革命軍の北上を阻止するか。
国民革命軍と対抗する張作霖軍の弱体を知っていればこそ、思い切って張作霖を退け、むしろ日本軍との衝突を引き起こし、それに乗じて一気に奉天を占領、満州を制圧してしまおう。それが張作霖爆殺の目的だった。
陸軍出身の田中首相は、さすがに張作霖爆死を一応は疑ったが、「まさか……オラの後輩の陸軍軍人にこんなバカなことをする者は、おるとは思えない」と、天皇の心配を伝えた奈良武官長に言った。天皇は微笑して、奈良武官長の報告を聞き、心から安堵した。