有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和8年1月荒木大臣は急性肺炎に冒され、1月下旬の議会再開を目前にしてどうしても立つことが出来ない状況で、1月19日辞意を決意した。
その日の午後千葉県四ッ街道に演習視察中だった教育総監・林銑十郎大将が急遽帰京、官邸に来て見舞いの後、柳川次官ととともに、小田原の参謀総長・閑院宮載仁親王殿下の御殿に向かった。
秘書官の有末少佐も二人のお供をした。電車の中では一言の会話も無く、有末少佐も沈黙を守り続けるほか無かった。
御殿に着くとお付き武官の泉名騎兵中佐の出迎えで強羅の別邸に案内された。
有末少佐は寒い別室でお茶と寿司を頂戴して待機ということになったが、襖一枚の仕切りであったので話の模様は手に取るように聞こえた。
最初、林大将は何か印刷物を出して殿下に説明しているらしかったが、「自分が大臣をお請けしても軍の統制はなかなか難しいが、もし真崎大将が大臣に就任されれば、この図表に示されているように統制も十分いくだろうと存じます」と真崎大将を推薦した。
柳川次官も林大将の提案に共鳴していた。だが殿下は、「それはいわゆる怪文書ではないか」とご反問された。
林大将はすかざず「怪文書といえば怪文書でありますが、こんな具合に内部がゴタゴタしているような世評がありますから、統制にはなお更人望のある真崎大将にお願いするのが適当かと存じます」と答えた。柳川次官も相槌を打って真崎大将を推薦した。
突如殿下は大きな声を発して「君達は、我輩に真崎を無理に押し付けるのか、私は久しく真崎を次長として使っていてよく知っている。林大将、貴殿はこの際進んでこの難局を引きうけてくれたまえ」と語気荒く言った。
林大将も柳川次官もシュンとして、林大将は「しからば、真崎大将を教育総監にご推薦ください」と申し出た。殿下はこれに了承し、ここに後任陸相は林大将に、その後任の教育総監には真崎大将が推されて非公式の三長官会議は終わった。
「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和8年2月、国際連盟は42対1(棄権1=秦)で満州問題が否決された。松岡洋右代表は声涙ともに下る有名な演説を残して、引き揚げ、日本帝国は国際連盟脱退の瀬戸際に立たされた。
陸軍省の柳川平助次官は軍事課の外交班長・原守中佐(25期)と陸相副官の有末精三少佐を帯同して、熱海伊豆山に静養中の上原勇作元帥の元に国際連盟脱退の報告に行った。
別荘とは名のみ、湯殿のある小さな日本家屋だった。上原元帥は寝巻きのまま床から上体を起して挨拶を受けた。原中佐と有末少佐は別室に下がり、柳川次官が報告した。
隣の部屋にも話し声はよく聞こえた。上原元帥は雷親父と言われただけに、大きな声で「中腰じゃ歩けんよ。静岡はどうか?(静岡とは西園寺公のこと)」「既にご同意であります」
上原元帥はさらに声を大にして「朝鮮米は?」との話し声が聞こえた。有末少佐と原中佐は顔を見合わせた。上原元帥の反宇垣感情というものを如実に察知する事が出来た。
上原元帥は皇道派で、柳川次官とは志を同じくするが、宇垣一成大将の行った軍縮に反発していた。宇垣大将は浜口雄幸内閣で陸軍大臣就任後予備役となり、当時は朝鮮総督であった。
報告が終わったので、有末少佐が上原元帥の部屋にお別れの挨拶に行ったところ、上原元帥が「お父っつあんは元気か、幾つかのう。わしは七十七歳じゃ。お互い長生きの競争をしようといってやっちょいてくれ」と元気に言った。
有末少佐の父は工兵大尉で、上原元帥が工兵監だった頃に世話になったことがあり、当時七十歳であった。また、有末少佐は大正6年陸士卒業の御前講演の折(恩賜で卒業)、参謀総長だった上原元帥から激励の言葉を戴いたことがあったのだ。
その日の午後千葉県四ッ街道に演習視察中だった教育総監・林銑十郎大将が急遽帰京、官邸に来て見舞いの後、柳川次官ととともに、小田原の参謀総長・閑院宮載仁親王殿下の御殿に向かった。
秘書官の有末少佐も二人のお供をした。電車の中では一言の会話も無く、有末少佐も沈黙を守り続けるほか無かった。
御殿に着くとお付き武官の泉名騎兵中佐の出迎えで強羅の別邸に案内された。
有末少佐は寒い別室でお茶と寿司を頂戴して待機ということになったが、襖一枚の仕切りであったので話の模様は手に取るように聞こえた。
最初、林大将は何か印刷物を出して殿下に説明しているらしかったが、「自分が大臣をお請けしても軍の統制はなかなか難しいが、もし真崎大将が大臣に就任されれば、この図表に示されているように統制も十分いくだろうと存じます」と真崎大将を推薦した。
柳川次官も林大将の提案に共鳴していた。だが殿下は、「それはいわゆる怪文書ではないか」とご反問された。
林大将はすかざず「怪文書といえば怪文書でありますが、こんな具合に内部がゴタゴタしているような世評がありますから、統制にはなお更人望のある真崎大将にお願いするのが適当かと存じます」と答えた。柳川次官も相槌を打って真崎大将を推薦した。
突如殿下は大きな声を発して「君達は、我輩に真崎を無理に押し付けるのか、私は久しく真崎を次長として使っていてよく知っている。林大将、貴殿はこの際進んでこの難局を引きうけてくれたまえ」と語気荒く言った。
林大将も柳川次官もシュンとして、林大将は「しからば、真崎大将を教育総監にご推薦ください」と申し出た。殿下はこれに了承し、ここに後任陸相は林大将に、その後任の教育総監には真崎大将が推されて非公式の三長官会議は終わった。
「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和8年2月、国際連盟は42対1(棄権1=秦)で満州問題が否決された。松岡洋右代表は声涙ともに下る有名な演説を残して、引き揚げ、日本帝国は国際連盟脱退の瀬戸際に立たされた。
陸軍省の柳川平助次官は軍事課の外交班長・原守中佐(25期)と陸相副官の有末精三少佐を帯同して、熱海伊豆山に静養中の上原勇作元帥の元に国際連盟脱退の報告に行った。
別荘とは名のみ、湯殿のある小さな日本家屋だった。上原元帥は寝巻きのまま床から上体を起して挨拶を受けた。原中佐と有末少佐は別室に下がり、柳川次官が報告した。
隣の部屋にも話し声はよく聞こえた。上原元帥は雷親父と言われただけに、大きな声で「中腰じゃ歩けんよ。静岡はどうか?(静岡とは西園寺公のこと)」「既にご同意であります」
上原元帥はさらに声を大にして「朝鮮米は?」との話し声が聞こえた。有末少佐と原中佐は顔を見合わせた。上原元帥の反宇垣感情というものを如実に察知する事が出来た。
上原元帥は皇道派で、柳川次官とは志を同じくするが、宇垣一成大将の行った軍縮に反発していた。宇垣大将は浜口雄幸内閣で陸軍大臣就任後予備役となり、当時は朝鮮総督であった。
報告が終わったので、有末少佐が上原元帥の部屋にお別れの挨拶に行ったところ、上原元帥が「お父っつあんは元気か、幾つかのう。わしは七十七歳じゃ。お互い長生きの競争をしようといってやっちょいてくれ」と元気に言った。
有末少佐の父は工兵大尉で、上原元帥が工兵監だった頃に世話になったことがあり、当時七十歳であった。また、有末少佐は大正6年陸士卒業の御前講演の折(恩賜で卒業)、参謀総長だった上原元帥から激励の言葉を戴いたことがあったのだ。