陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

50.石川信吾海軍少将(10) 岡軍務局長は、石川大佐を局長室に呼んで、ハル・ノートの訳文を手渡した

2007年03月02日 | 石川信吾海軍少将
 近衛手記には「松岡外相が対ソ開戦を強硬に主張するので、これを押さえるための代償として、外相の素志である南部仏印進駐を認めた」と記されている。

 石川少将は戦後、東京裁判の影響下に出された太平洋戦争に関する文章には、かなり間違いが多いが、これなどはその最たるものであると述べている。

 南部仏印に関する議案が政府大本営会議にかけられた時、これに真っ向から反対したのが松岡外相であると。

 当時、軍務局長から石川大佐は「松岡外相が南部仏印進駐に反対で、会議は停滞した。君が外相を説得してくれ」と命じられた。
 
 石川大佐は軍令部によってT作戦課長に「松岡外相に話しに行くのだが、その前に軍令部の腹を聞きたい」と申し入れた。

 T大佐の答えは「松岡外相が日米間の問題を外交交渉で処理し、開戦に至らしめない事を保証してくれるなら、進駐はしない。しかし、今進駐を止めておいて、後で外交では片付かないから開戦だと言われても、引き受けられない。開戦の危険があるなら、南部仏印進駐は作戦上必要である」ということであった。

 松岡外相を私邸に訪ね、二階に通された石川大佐は、さっそく「あなたは南部仏印進駐に反対しておられるそうですね」と言った。

 すると、松岡外相は「南部仏印に出れば戦争になるから、いかんと言っているのだ」と、いささかご機嫌ななめだった。

 石川大佐が「出なければ戦争にならずに片付きますか」と聞くと「そんなことは分からんよ」と松岡外相は答えた。

 石川大佐は「分からんでは軍令部としても困るでしょう。軍令部は外相が責任を持って、開戦にならぬように始末をつけると言明してくれれば、進駐案は引っ込めても良いと言明していますが、あなたはそれを言明するだけの自信がありますか」と言った。

 ここで松岡外相はかんかんに怒り出して、大声で「いま、そんなバカな言明が出来るか。バカいっちゃいかん」とどなりだした。

 「それじゃ作戦当局としたら、どうしようもないでしょう。今出ちゃいかん、先になったら戦争になるかも知れんが、その時はしっかりやれと言っても、作戦の責任者は今出ておかなければ後になって引き受けられないと考えている。作戦当局からすると、やはりバカいっちゃいかん、ということになる」と石川大佐が言うと、松岡外相は興奮して怒鳴り出したという。

 松岡外相は二階から階段をおりる石川大佐を玄関まで送り出しながら「バカなことを言うやつだ」と怒鳴り散らした。

 だがその後数日して、政府大本営連絡会議で南部仏印進駐が決定した。

 日本政府がこの決定をビシー政府に申し入れたのは、第三次近衛内閣成立後の昭和16年7月19日で、その時松岡氏は外相の職にいなかった。外相は豊田貞次郎であった。

 このような流れで、7月25日、米国は在米日本資産の凍結を命令し、日米間は事実上経済断交と同様になった。イギリス、オランダも同様の処置を取った。

 7月26日、米英蘭の三国間に日本への石油輸出全面的禁止の協定が成立した。

 昭和16年11月26日アメリカのハル国務長官は野村・来栖両大使を招致してアメリカ側新提案を手渡した。これはアメリカの対日最後通牒であった。これが有名なハル・ノートであって、日本に対する手切れの挨拶であった。アメリカは遂に太平洋にサイコロを投じ、日米開戦へと進んでいった。

 11月27日、岡軍務局長は、石川大佐を局長室に呼んで、ハル・ノートの訳文を手渡した。

 岡局長は椅子に深く沈んだように腰をかけ、片手で額を支えたまま「これではいよいよ開戦のほかはない。今日までの苦心も、ついに水の泡である」と言って、ハラハラと落涙した。

 岡局長はしばらく無言でいたが「こうなった以上、開戦の際、手落ちのないように、前例なども調べて、ぬかりなくやってくれ」と石川大佐に言った。

 そしてこのとき、ハワイ急襲部隊は、太平洋上をハワイに向かって東進中だったのである。

 (「石川信吾海軍少将」は官今回で終りです。次回からは「田中隆吉陸軍少将」が始ります)