陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

495.東郷平八郎元帥海軍大将(35)どうも山本は感心しない人物としか映らなかった

2015年09月18日 | 東郷平八郎元帥
 閣議に出席した次官・山梨中将も、閣議で回訓が決まったことを報告しに東郷元帥邸を訪ねた。応接間で和服姿の東郷元帥はじっと報告を聞いていたが、終わると次のように言った。

 「一旦決定せられたる以上は、それでやらざるべからず。今更彼れこれ申す筋合いにあらず、この上は部内の統一に務め、愉快なる気分にて和衷協同、内容の整備はもちろん、士気の振作、訓練の励行に力を注ぎ、質の向上により海軍本来の使命に精進すること肝要なり」。

 だが、東郷元帥に心酔している加藤軍令部長は、おさまらなかった。加藤軍令部長は、どうしても天皇に直接訴えたかった。三月三十一日と四月一日に上奏を願い出たが容れられず、後に、侍従長・鈴木貫太郎大将による「上奏阻止事件」とされた。

 強硬派から「君側の奸」とされた鈴木大将だが、兵力量のことで首相と軍令部長が違った上奏をしては、陛下は判断に苦しまれるだろうとの思いがあったのだ。

 三度目の願いが許されて、四月二日朝、加藤軍令部長は、皇居に参内して上奏文を読み上げた。すでに政府がロンドンへ条約妥結の解答電報を打ったあとだった。

 二十八歳の昭和天皇は、黙って加藤軍令部長の上奏文を聞いていた。内容は意外にあっけなかった。後に「回訓反対の上奏」と伝えられているが、「慎重審議を望む」というだけで、「反対」ではなかった。

 当時、霞が関の海軍省軍務局長は堀悌吉(ほり・ていきち)少将(大分・海兵三二首席・海大一六次席・海軍大学校教官・ワシントン会議全権随員・連合艦隊参謀・大佐・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・軍令部参謀・ジュネーヴ会議全権随員・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍務局長・第三戦隊司令官・第一戦隊司令官・中将・勲二等旭日重光章・予備役・日本飛行機社長・浦賀ドック社長)だった。

 四月二十一日、条約調印の前日、その堀軍務局長のところへ、軍令部第二課長代理・野田清(のだ・きよし)大佐(北海道・海兵三五・四十番・海大一七・二等巡洋艦「鬼怒」副長・海軍大学校教官・大佐・軍令部第一班第二課長・ジュネーヴ会議全権随員・海軍省副官・海軍省臨時調査課長・軍事普及部委員長・少将・海軍部報道部長・中将・軍事普及部委員長)が次のような内容の一通の書類を持って来た。

 「倫敦海軍条約案ニ関スル覚 海軍軍令部 海軍軍令部ハ倫敦海軍条約中補助艦ニ関スル帝国ノ保有量ガ帝国ノ国防上最小所要海軍兵力トシテソノ内容充分ナラザルモノアルヲ以テ、本条約ニ同意スルコトヲ得ズ」(海令機密第六七号)。

 「なんだこれは。調印は明日だ。こんなもの受け取れん」と、堀少将は書類を突き返した。野田大佐は「軍令部長は、海相が帰国されるまで預かっておいてくれと申されました」と言った。

 翌日、岡田大将が加藤軍令部長を東京四谷の自宅に訪ねて真意を聞くと、「条約調印前の日付で軍令部は反対だった証を残しておきたかったのだ。大臣が帰るまで金庫にでも納めて置いてもらえれば……」と言った。

 四月二十二日、ロンドンでは、セント・ジェームズ宮殿で軍縮条約の調印式が行われた。若槻全権は、国産のペンでサインした。

 調印後、日本全権団は宿舎のグローブナーハウスで慰労パーティを開いたが、海軍随員の佐官級は不満で荒れた。取っ組み合いや鼻血を流す者もいた。「全権が逃げたと言われたくなかった」という若槻は、最後まで付き合い、部屋に戻ったのは深夜だった。

 戦後の第一次吉田内閣の外務次官・寺崎太郎(東京・帝国大学法科卒・外務省アメリカ局長・外務次官)は、当時三等書記官で、ニューヨーク領事館から随員として加わり、若槻の通訳などをした。

 「れいめい・日本外交回想録」(寺崎太郎・1982年)によると、著者の寺崎は、当時のことを次のように述べている。

 「一行中で夫人同伴は財部全権と新婚早々の私だけ。エライ人の奥さんと私の妻だけがホテルの中で紅二点だった。海軍の佐官連中が暴力をふるう場合は私が飛び出すからお前もそのつもりでおれ、と花嫁に申し聞かせたものでした」

 「海軍側の若手随員中の猛者連が若槻首席全権や山川、川崎両顧問の居室を夜中訪れ、今でいえば、“座り込み”をやったのである。日本全権団の宿舎は、物情騒然となった。海軍の首席随員は左近司さんだったが、すぐ次には鼻っぱしの強い山本五十六が控えていたので、さぞ、左近司さんはやりづらかったことと察せられた」。

 山本五十六はロンドンでは暴れたらしい。だが、その反面で、こんなこともあった。朝日新聞政治部記者で、ロンドン軍縮会議取材のため特派された浜田常二良(著書に「ヒットラー・人及その事業」「日独国民性の相違とナチスの政策」「大戦前夜の外交秘話―特派員の手記」などがある)は、後に次のように語っている。

 「ロンドンのグロブナー・ハウスでの慰労会で、山本は隣り合わせの私に『アスパラガスをとってくれ』と頼んだ。山本はアスパラガスが大好物だった。真向かいに座った全権の財部海相が『ここにあるよ』という。私は、あんなに財部の悪口をかげでたたく山本だから、受け取らぬと思っていたら、頭を下げてヘイヘイしながら有り難そうに受けっとった。私は山本とは親しくしていたが、以来、腹の中では軽蔑し、どうも山本は感心しない人物としか映らなかった」。