陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

398.真崎甚三郎陸軍大将(18)宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である

2013年11月08日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「ころあいを見計らって、私は、加藤寛治海軍大将に電話して、二人で海軍軍令部長・伏見宮殿下を訪ねた」

 「伏見宮殿下に加藤大将は『真崎大将が現状を詳細に視察してよくわかっていますので、大将の意見を聞いていただきます』と言った」

 「私は、決行部隊の現況をつぶさに説明したのち、この混乱を速やかに収拾しなければ、どういうことになるか保証の限りではない、と意見を申し上げた」

 「私と加藤大将は『殿下、これから急ぎ参内されて、天皇陛下に言上の上、よろしくご善処下さるようお願い申し上げます』と述べ、いち早く天皇のご決意を維新へと導き奉らんとした」

 「伏見宮殿下はご納得の上、至急参内し、天皇陛下にご進言申し上げた。すると、『宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である』という天皇陛下のご叱責を受けて、宮殿下は恐縮して引き下がらざるを得なかった」。

 以上が真崎元大将の話だが、この時点で、天皇陛下の激怒によって、二・二六の青年将校たちはすでに惨敗していたということになる。

 事件当日、真崎大将は、午前十一時半か十二時ごろ、宮中の東溜りの間に伺候した。その頃軍事参議官が逐次集まってきた。

 大蔵氏が「軍事参議官会議の模様は……?」と質問すると、真崎元大将はその状況を詳細に話してくれたという。

 北一輝は西田税から決起将校たちが事前に軍上層部、少なくとも荒木貞夫大将、小畑敏四郎少将、石原莞爾大佐、鈴木貞一大佐(すずき・ていいち・千葉・陸士二二・陸大二九・陸軍省新聞班長・大佐・陸大教官・歩兵第一四連隊長・少将・興亜院政務部長・中将・予備役・企画院総裁・貴族院議員・第日本産業報国会会長・A級戦犯・戦後保守派のご意見番)、満井佐吉中佐らに諒解や連絡をしていなかったということを聞いて“しまった”と思った。

 北一輝は中国革命(辛亥革命)の経験から、革命というものは上下の全体的な統一的な計画のもとに行わなければ成功しないということを、知っていた。

 やがて、北一輝に「国家人なし。勇将真崎あり。国家正義軍のために号令し、正義軍速やかに一任せよ」と霊示が告げられた。

 北一輝は決起将校の栗原安秀中尉、村中孝次元大尉に、「軍事参議官全員で真崎大将を首班に推すようにし、大権私議にならぬよう、真崎大将に一任しなさい」と伝えた。

 磯部浅一元一等主計、村中孝次元大尉、香田清貞大尉は北の霊告を受けて事態を真崎大将に依頼しようと相談し、陸相官邸に各参議官の集合を求めた。陸相官邸には、十七、八名の決起将校が集まった。

 当日午後二時頃、陸相官邸に来たのは真崎大将、阿部信行大将、西義一大将(にし・よしかず・福島・陸士一〇・陸大二一・東宮武官・侍従武官・少将・野戦重砲兵第三旅団長・中将・陸軍技術本部総務部長・第八師団長・東京警備司令官・大将・東部防衛司令官・軍事参議官・教育総監)の参議官でほかの参議官は来なかった。

 この会見には山口一太郎大尉、鈴木貞一大佐、山下奉文少将、小藤恵大佐(こふじ・めぐむ・高知・陸士二〇・陸大三一・陸大教官・大佐・陸軍省補任課長・歩兵第一連隊長・待命・予備役・第一八師団参謀長・参謀本部戦史部長・少将・昭和十八年死去)らが立ち会った。

 このときの様子は、磯部浅一の手記「行動記」に拠ると、まず野中四郎大尉が、「事態の収拾を真崎将軍にお願い申します。この事は全軍事参議官と全青年将校との一致せる意見として御上奏お願い申したい」と申し入れた。

 これに対して真崎大将は「君達が左様に言ってくれる事は誠に嬉しいが、今は君達が連隊長の言う事をきかねば、何の処置もできない」と答えた。

 これについて「行動記」に磯部は、「どうもお互いのピントが合わぬので、もどかしい思いのままに無意義に近い会見を終わる。安部、西両大将が真崎を助けて善処すると言う事丈は、ハッキリした返事をきいた」と記している。

 真崎大将はこの会見について、後に次のように記している。真崎大将の決起将校たちに対する心情が率直に記されていて、貴重な証言である。

 「斯くて、偕行社に皆集まって色々協議するが、どうにも方策も名案も立たんのである。併しどうしても兵隊を原隊に引き揚げさせる外はないのであるが、迂闊には寄り付けんのである」

 「結局皆で私に説得してくれというのである。併し私は断った。うまくいって元々、悪くゆくと、どんなことを言い触らすかわからんのである」

 「それでなくとも悪党共は背後に真崎ありと宣伝していた際であるから、私は強く断った。併し陛下が大変御心配になっているから、毀誉褒貶(きよほうへん)を度外視して一肌脱いでくれと、再三の懇請に、それでは立会人を立ててくれと言って、阿部信行と西義一を指名した」