飯田祥二郎少将が第一軍参謀長に就任した、昭和十三年一月当時の第一軍司令官は、香月清司(かつき・きよし)中将(佐賀・陸士一四・陸大二四・陸軍大学校教官・歩兵大佐・歩兵第六〇連隊長・歩兵第八連隊長・陸軍大学校教官・陸軍省軍務局兵務課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸軍大学校教官・陸軍大学校幹事・中将・陸軍歩兵学校長・第一二師団長・近衛師団長・教育総監部本部長・支那駐屯軍司令官・第一軍司令官・予備役・昭和二十五年一月死去・享年六十八歳・勲一等瑞宝章・功二級)だった。
昭和十三年五月三十日、第一軍司令官・香月中将は、参謀本部附となり、梅津美治郎中将が第一軍司令官に着任した。
戦後、飯田祥二郎元中将は、第一軍参謀長時代を回顧して、次の様に述べている。
前司令官の香月中将は、怒りっぽい性格で、雷を落とすことが少なくなかった。例えば、方面軍の処置が気に入らないと、これを基礎にした幕僚の案まで、決裁を受けられなかったことが度々あった。
しかし、翌朝になると、軍司令官の気分が一変し、「万事委す」といって決済されるのが通例であった。
だが、平素は幕僚の仕事がやり易いように配慮したり、司令部内の空気を明るくしようと冗談を飛ばすことも再々あった。
香月将軍は、私の士官学校生徒時代の区隊長であり、私が歩兵学校教官当時の校長という因縁があり、お互い特別親しい間柄であった。
雷の鳴らない香月将軍など淋しい位の気持ちだったので、香月軍司令官当時の参謀長の職務は、むしろ明朗な日々であったというのが実情だった。
このような時に、新軍司令官とし、梅津将軍を迎えたのだ。「これは大変なことになった。あの緻密な頭でビシビシやられたらたまったものではない。これからの毎日が思いやられる」というのが、偽らざる当時の感想だった。
ところが事実はこれと全く反対で、かような心配は皆無であったばかりか、参謀長としてはむしろ理想的という生活が待ち受けていた。
梅津司令官が着任したのが昭和十三年五月末であり、私(飯田祥二郎少将)が転出したのが同年十一月初めであるから、軍参謀長として梅津軍司令官の下に勤務したのは正味五か月ということになる。
この間において第一軍の戦況は大きな作戦はなく、大体において守備勤務という状態であった。強いて言えば、南部山西における第二十師団の作戦位のものである。
我々は暇さえあればボーとして頭を休めているが、雑事に負われると他を顧みる余裕のないのが一般であり、大局からの視察がとかく不足がちなのが通例だが、梅津軍司令官は絶えず軍司令官としての立場からの頭の働きが並大抵でなかった。
以上のように梅津軍司令官の下における軍参謀長の仕事は、誠に平静な日々であったということが出来る。
身辺日記の八月三日の一節に次のような記録がある。
「本日は頗る暑さ激し、夕食後、官邸広間扇風機の下にて軍司令官と雑談十時半に至る。最も涼しき位置なり」。
軍司令官との雑談が暑気を一掃し、涼風満喫という光景が想像される。これは梅津軍司令官と参謀長との日常の接触の光景と思えば如何に幸福な日々であったかを想像することが出来る。
梅津軍司令官を理想的な戦場の将軍と推奨するのは当然であろう。
昭和十四年九月七日、第一軍司令官・梅津美治郎中将は、関東軍司令官兼駐満州国大使に親補された。
元来関東軍司令官は満州事変終了後、現役陸軍大将中の最古参者を送り込むのが例であったが、梅津は未だ中将であり、平素の序列によれば実に、二十名近くの人々を飛び越えて抜擢されたのだということであった。
そして十九年七月、東條英機総理兼参謀総長が統帥と政務の分離を余儀なくされ、かつ部内の幕僚の要望によって梅津を参謀総長に呼び戻すまで、実に五年間に近く関東軍司令官の職にあった。
昭和十三年五月三十日、第一軍司令官・香月中将は、参謀本部附となり、梅津美治郎中将が第一軍司令官に着任した。
戦後、飯田祥二郎元中将は、第一軍参謀長時代を回顧して、次の様に述べている。
前司令官の香月中将は、怒りっぽい性格で、雷を落とすことが少なくなかった。例えば、方面軍の処置が気に入らないと、これを基礎にした幕僚の案まで、決裁を受けられなかったことが度々あった。
しかし、翌朝になると、軍司令官の気分が一変し、「万事委す」といって決済されるのが通例であった。
だが、平素は幕僚の仕事がやり易いように配慮したり、司令部内の空気を明るくしようと冗談を飛ばすことも再々あった。
香月将軍は、私の士官学校生徒時代の区隊長であり、私が歩兵学校教官当時の校長という因縁があり、お互い特別親しい間柄であった。
雷の鳴らない香月将軍など淋しい位の気持ちだったので、香月軍司令官当時の参謀長の職務は、むしろ明朗な日々であったというのが実情だった。
このような時に、新軍司令官とし、梅津将軍を迎えたのだ。「これは大変なことになった。あの緻密な頭でビシビシやられたらたまったものではない。これからの毎日が思いやられる」というのが、偽らざる当時の感想だった。
ところが事実はこれと全く反対で、かような心配は皆無であったばかりか、参謀長としてはむしろ理想的という生活が待ち受けていた。
梅津司令官が着任したのが昭和十三年五月末であり、私(飯田祥二郎少将)が転出したのが同年十一月初めであるから、軍参謀長として梅津軍司令官の下に勤務したのは正味五か月ということになる。
この間において第一軍の戦況は大きな作戦はなく、大体において守備勤務という状態であった。強いて言えば、南部山西における第二十師団の作戦位のものである。
我々は暇さえあればボーとして頭を休めているが、雑事に負われると他を顧みる余裕のないのが一般であり、大局からの視察がとかく不足がちなのが通例だが、梅津軍司令官は絶えず軍司令官としての立場からの頭の働きが並大抵でなかった。
以上のように梅津軍司令官の下における軍参謀長の仕事は、誠に平静な日々であったということが出来る。
身辺日記の八月三日の一節に次のような記録がある。
「本日は頗る暑さ激し、夕食後、官邸広間扇風機の下にて軍司令官と雑談十時半に至る。最も涼しき位置なり」。
軍司令官との雑談が暑気を一掃し、涼風満喫という光景が想像される。これは梅津軍司令官と参謀長との日常の接触の光景と思えば如何に幸福な日々であったかを想像することが出来る。
梅津軍司令官を理想的な戦場の将軍と推奨するのは当然であろう。
昭和十四年九月七日、第一軍司令官・梅津美治郎中将は、関東軍司令官兼駐満州国大使に親補された。
元来関東軍司令官は満州事変終了後、現役陸軍大将中の最古参者を送り込むのが例であったが、梅津は未だ中将であり、平素の序列によれば実に、二十名近くの人々を飛び越えて抜擢されたのだということであった。
そして十九年七月、東條英機総理兼参謀総長が統帥と政務の分離を余儀なくされ、かつ部内の幕僚の要望によって梅津を参謀総長に呼び戻すまで、実に五年間に近く関東軍司令官の職にあった。