陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

690.梅津美治郎陸軍大将(30)近衛首相は「杉山、……あれはバカだよ。万事、梅津まかせだ」とさえ、口にしていた

2019年06月14日 | 梅津美治郎陸軍大将
 だが、近衛首相は「君が否定する気持ちは分かるが、世間ではそんな噂が高いぞ」と、譲らなかった。

 そこで、は「万葉会で評判が出るのでしょう?」と、意表を衝いてみた。

 すると、近衛首相は「君も油断がならんね。いろんな事を知っているね」と意外そうだった。

 続いて、企画院調査官・池田純久大佐が「公爵、一度、梅津将軍に会ってくれませんか、どんな将軍かがお分かりになりましょう」と言った。

 近衛首相は「ウウン、会ってもいいよ。連れて来たまえ」と答えたので、企画院調査官・池田純久大佐は「承知しました」と言って別れ、梅津邸に急いだ。

 梅津邸で、詳細を報告して、「一度、近衛公に会ってください。公爵も会ってもよろしいと言っています」と、陸軍次官・梅津美治郎中将に会うことを勧めた。

 ところが、陸軍次官・梅津美治郎中将は「池田君、僕は次官だよ。大臣を抜きにして総理に会うことは、越権ではあるまいか」と、なかなか首を縦に振らなかった。

 企画院調査官・池田純久大佐が「大臣の認可を受けられてはどうですか」と提言すると、陸軍次官・梅津美治郎中将は「そのうちに会うことにしてみようか」と言ったものの、その日は、はっきり決まらないで終わってしまった。

 それから一ヶ月たったあとで、陸軍次官・梅津美治郎中将は支那山西省の第一軍司令官に転補されることになり、近衛首相に挨拶に行った。

 挨拶に来た後で、近衛首相は、企画院調査官・池田純久大佐に、「池田君、梅津将軍に会ったよ。一時間ばかり話してみたが、聞きしにまさる偉い将軍だね。政治的陰謀なんかやれる人じゃないね」と言った。

 「それごらんなさい!」と企画院調査官・池田純久大佐は、すかさず答えた。

 だが、梅津中将は、陸軍次官当時から、近衛首相には、憤りを感じていたのだ。

 海軍次官・山本五十六中将は、陸軍次官・梅津美治郎中将について、次の様に述べている。

 「梅津という人物について、大体分かっていたけれども、あんまりよく分からなかった。ところが、昨日、次官会議の帰りに憤慨してはっきり自分に言っていたが、言うことは全てその通りだと自分は感じた」

 「それは、“元来総理大臣は、今まで自分から自主的にこうしたらどうだとか、ああしたらどうかということを少しも言わないで、常に受け身の態度でいて、少し面倒臭くなると寝込んでしまう。自分たちの統制に対する労苦を明察することもなければ、ただ一部の者の示唆によって人を代えたりなんかしようとする。甚だけしからん話だ”と言って、はっきりと総理の態度を非常に憤慨しておった」

 「あんなにはっきりと怒ったのは、自分はかつて見たことはない」。

 梅津中将は、寺内、中村、杉山の三陸相につかえ、キャビネット・メーカーなどと言われたが、慎重だったので、記者会見を極端に嫌がった。

 梅津中将は冷静で、その行動は極めて理知的であったから、感情に走るなどということは、微塵もなかった。

 だが、下僚にとっては、聡明だっただけに、下手なことも言えず、親しみにくい存在だった。朝、廊下などで会った時、「やあ、おはよう」と挨拶くらいはしてもよさそうなものだ、と言っていた人もある。

 ちなみに、近衛首相は、陸軍大臣・杉山元大将とはとても仲が悪かった。近衛首相は「杉山、……あれはバカだよ。万事、梅津まかせだ」とさえ、口にしていたという。

 昭和十三年五月三十日、梅津美治郎中将は、陸軍次官を辞任し、第一軍司令官に親補された。
 
 陸軍省兵務局長・飯田祥二郎(いいだ・しょうじろう)少将(山口・陸士二〇・陸大二七・第四師団参謀・歩兵大佐・歩兵学校教官・近衛歩兵第四連隊長・第四師団参謀長・少将・陸軍省兵務局長・第一軍参謀長・台湾混成軍旅団長・中将・近衛師団長・第二五軍司令官・第一五軍司令官・中部軍司令官・予備役・第三〇軍司令官<関東軍>・終戦・ソ連軍捕虜・シベリア抑留・復員・昭和五十五年一月死去・享年九十一歳・旭日大綬章)は、昭和十三年一月北支の第一軍参謀長に就任した。