陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

556.源田実海軍大佐(16)研究会は源田少佐の弁舌に引きずられ、ほとんど彼の独演会の様相だった

2016年11月18日 | 源田実海軍大佐
 後日、源田大尉が、大西大佐にこの事を聞いたら、大西大佐は次のように答えた。

 「うん、一泊させてもいいんだ。ただ、新田の奴が、疲れるとか何とか、もっともらしい屁理屈を並べないで、大村には前にもいたことがあるし、飲み友達もいることだから、一泊させてくださいと頼めば、一も二もなく許してやったんだよ」。

 大西大佐という人は、そういう人であった。「こやつはやるぞ」と信頼を寄せていた新田大尉が、柄にもない屁理屈をこねたので、怒りが爆発したのであろう。

 昭和十二年八月十六日、台北基地の鹿屋隊の攻撃部隊(指揮官・新田慎一少佐)は、句容に向かい、空中制圧を行なった。

 この攻撃で、指揮官機は被弾し不時着した。新田少佐は不時着後、搭乗員全員の自決を自分で見届け、最後に腹掻き切って果てたそうである。日本武士らしい立派な最期だった。
 
 新田少佐が中国中部の空から帰ってこなかったとき、大西大佐は最も悲しんだ一人であったし、また、その最期の状況を微に入り細を穿ち調べ上げたのも大西大佐だった。

 昭和十三年一月、中国戦線から帰国した源田実少佐は、横須賀海軍航空隊飛行隊長兼戦術教官に任命された。戦闘機及び艦爆分隊からなる飛行隊長だった。

 源田少佐は海軍大学校の学生時代から論議していた「戦艦無用論、航空主兵主義」は、支那事変という実戦の洗礼を受けて、さらに頭を持ち上げて来た。

 兼務として航空戦術教官に任命された源田少佐は、砲術学校、水雷学校等の教官も兼務したが、学校においての講義は必然的に源田少佐自身の用兵思想を展開したので、これに反対する教官と論争になり、学生そっちのけで大論争を繰り広げることになった。

 昭和十三年一月十七日、十二試艦戦計画要求書についての官民合同研究会が、横須賀市追浜の海軍航空廠会議室で開かれた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、航空本部から技術部長・和田操(わだ・みさお)少将(東京・海兵三九・四番・海大選科学生・東京帝国大学工学部・航空本部技術部部員・大佐・航空本部出仕・欧米出張・航空本部技術部長・少将・航空技術廠長・中将・航空本部長)以下関係者が出席した。

 また、航空技術廠から航空技術廠長・前原謙治(まえばら・けんじ)中将(山口・海兵三二・十四番・艦政本部部員・大佐航空本部総務部長・少将・横須賀工廠造兵部長・航空技術廠長・中将・予備役・第二軍需廠長官)以下関係者が出席した。

 これに試作に参加する三菱、中島両社の技術者も含めて三十人余りの出席者があった。また、横須賀海軍航空隊飛行隊長・源田実少佐、海軍航空技術廠飛行実験部陸上班長兼戦闘機主務・柴田武雄少佐ら海軍関係者も出席した。

 だが、この研究会での主役はなんといっても、第二連合航空隊参謀として活躍した中国大陸の前線から、数日前に帰国したばかりの源田実少佐だった。
 
 源田少佐は、まだほとぼりの覚めやらぬ実戦の体験(といっても彼自身は直接戦闘には参加していないが)について熱っぽく語り、新戦闘機に対する要求のどれもが絶対に欠かせないものであることを強調し、要求性能の緩和にかすかな望みを抱いていた会社側の技術者たちを、さらに憂鬱にさせた。

 昭和十二年十二月一日から航空技術廠に着任していた柴田少佐も、この研究会に参加していたが、研究会は源田少佐の弁舌に引きずられ、ほとんど彼の独演会の様相だった。柴田少佐はこの事を、苦々しく思っていた。柴田少佐は次のように思った。

 「要求性能は高いことにこしたことはない。ただし、それは実現の可能性があっての話で、勢いに任せてあれもこれもの無理強いは決して実際的ではない」

 「源田少佐は速力、航続力と共に、いやそれ以上に空戦性能の強化をしきりに強調しているが、我が国の戦闘機の現状からすれば、空戦性能は特に強調する必要はなく、問題はむしろ敵機に出会い、それを捕捉するに必要な航続力と速力、特に航続力の大きさにあるのではないか……」。

 柴田少佐は、この日は、反論は差し控えた。せっかく源田少佐によってつくりだされた緊迫したムードに水を差すことは適当ではなかったし、発言するには自分の意見ももっと煮詰める必要があると思ったのだ。

 二ケ月後の、四月十三日、再び航空技術廠会議室で十二試艦戦の計画説明審議会が開催された。出席者は前回とほぼ同様だったが、競争二社のうち、中島飛行機が、エンジンを除き試作を辞退したので、民間からの出席者は三菱の四名だけだった。中島の辞退により審議は三菱案だけとなった。