陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

555.源田実海軍大佐(15)新田大尉は大西大佐の前に来て「副長は血も涙もない冷血動物だ」と叫んだ

2016年11月11日 | 源田実海軍大佐
 七月二十日過ぎ、源田少佐は長崎県の大村航空隊にある第二連合航空隊司令部に着任した。当時の第二連合航空隊司令官と先任参謀は次の通り。

 司令官・三並貞三(みつなみ・ていぞう)大佐(大阪・海兵三七・三十番・海大二〇・海軍大学校教官・大佐・給油艦「能登呂」艦長・空母「鳳翔」艦長・航空廠総務部長・空母「加賀」艦長・第二連合航空隊司令官・少将・第二戦隊司令官・艦本造船造兵監督長・予備役・充員召集・軍令部出仕)。

 先任参謀・小田原俊彦(おだわら・としひこ)少佐(鹿児島・海兵四八・十九番・第二連合航空隊参謀・大佐・霞ヶ浦航空隊副長兼教頭・鹿屋航空隊司令・第七五一航空隊司令・航空本部第一部第一課長・第一航空艦隊参謀長・第一航空艦隊参謀副長・戦死・少将)。

 八月十三日、第三艦隊司令部は、先制攻撃によって中国空軍を一挙に制圧するため、八月十四日に南京、杭州、広徳、南昌、虹橋を空襲する命令を出した。

 だが、東シナ海に猛烈な台風があり北方に進行中だった。この台風で、空襲作戦を決行することは困難だった。第三艦隊司令部から「天候の回復するまで空襲を見合わす」との命令が出された。

 ところが、突然、中国の戦闘機、攻撃機、爆撃機が来襲、上海特別陸戦隊や第八戦隊(軽巡洋艦二隻)、旗艦「出雲」などに、攻撃を加えた。損害は軽微だったが、中国側に先制空襲をされたのだ。

 先制攻撃、制空権の獲得の重要性を認識した、第二連合航空隊参謀・源田実少佐は、戦闘機で広域制空を行う「制空隊」を考案した。戦闘機を主体的に運用する画期的な戦術構想だった。

 また、中国奥地への攻撃には戦闘機の航続距離が不足だったが、源田少佐は、中継地点を利用する方法を考案して解決した。

 この戦術構想により、九月から南京方面の空襲作戦を実施、十一回の空襲で、中国空軍戦闘機隊を壊滅させ、日本軍が制空権を獲得した。

 当時、第三艦隊司令長官から、「第一連合航空隊はただちに進発、杭州、広徳を攻撃せよ」という命令が発せられた時、源田実少佐は、鹿屋航空隊飛行隊長・新田慎一(にった・しんいち)少佐(山口・海兵五一・鹿屋航空隊飛行隊長・戦死・中佐)の面影が浮かんだ。

 新田慎一少佐は、海軍兵学校は源田少佐の一期上で、源田少佐が海軍兵学校一年の時、同じ分隊の二学年生徒で、入校早々、毛布のたたみ方とか、自習室の掃除のやり方とか、色々指導を受けた。

 昭和九年源田大尉が空母「龍驤」の戦闘機分隊長をやっていた時、新田大尉は攻撃機分隊長だった。翌十年、源田大尉が横須賀航空隊の戦闘機分隊長の時は、新田大尉は同じく横空の攻撃機分隊長だった。

 新田少佐は大型攻撃機論者で、急降下爆撃を主張する源田少佐とは論敵の間だった。時には激しい口調と態度で論戦を交えることもあった。

 だが、共に航空主兵論者であることに変わりはなく、個人的関係は極めて良好だった。新田少佐は大西瀧治郎中将の知遇を受けた一人でもあった。

 横浜航空隊時代(昭和十年頃)、ある艦上攻撃機の航続力実験で横須賀、大村の往復夜間飛行を行うことになった。

 往路はちょうど午前零時頃、横空を離陸して、午前三時頃、大村に就く予定だった。攻撃機分隊長・新田大尉は次のように、副長兼教頭・大西瀧治郎大佐に申し出た。

 「夜間飛行を三時間もやると相当疲れるので、大村に一泊して、翌朝帰ることにしたい」。

 すると、大西大佐は、次の様に言って、新田大尉の申し出を、一喝の上に退けた。

 「何を言っているんだ。僅か三時間ぐらいの夜間飛行で疲れるような奴に、いくさが出来るか。一泊などとんでもない。着いたらすぐ折り返して帰って来い」。

 新田大尉は、ぷんぷんしながら教頭室を退いたが、飛行作業は教頭の言うように、折り返し飛行で即日帰って来た。

 数日後、ある料亭で横空の会が設けられたと際、多少酔いのまわった新田大尉は大西大佐の前に来て「副長は血も涙もない冷血動物だ」と叫んだ。

 すると大西大佐は、「何を、この野郎」と、鉄拳を新田大尉の頭に飛ばせた。翌日新田大尉は出勤しなかった。大西大佐は、「あの位のことで、休むやつかな」と、不審そうな顔をしていた。