陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

400.真崎甚三郎陸軍大将(20)「真崎は絶対にいかん、真崎大将を死刑にするんだ」

2013年11月22日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 尋問における大谷憲兵大尉と真崎大将の問答は続く。

 大谷憲兵大尉「では聞きましょう。貴方は加藤寛治海軍大将と何か打ち合わせをしましたか」。

 真崎大将「加藤大将とはこの朝、宮中で会ったのが初めてだ」。

 大谷憲兵大尉「貴方は当日午前八時半頃、陸相官邸に入った。そして、しばらくそこにいたが、間もなく官邸を出て、宮城に参入する前に、伏見宮邸に参殿している。これも否認しますか」。

 真崎大将「もちろんだ、行かないものを言ったといえるはずはない」。

 大谷憲兵大尉「貴方は加藤大将に迎えられて同大将の侍立で、宮様に事態収拾についての意見を申し上げている。どんな意見を申し上げたか、ここで述べてもらいます」。

 そう言って、大谷憲兵大尉は加藤大将の調書を次のように読み上げた。

 「私は真崎大将を案内して殿下に伺候させました。私はそこで侍立していましたので、真崎大将が宮様に申し上げた内容については、ほぼ、記憶していますが、同大将は今朝来の事件の概要を申し上げた後、“事ここに至りましては、最早、彼らの志をいかして昭和維新の御断行を仰ぐより外に道はありませぬ。速やかに強力なる内閣を組織し事態の収拾をはかると共に、庶政を一新しなければなりませぬ”と、はっきり申しました」。

 真崎大将は一瞬棒を呑んだように、グッとつまり、今までの激しい反発の力を失い、じっと瞑目していたが、何も言わなかった。そのあと、真崎大将は低い声で力弱く、次のように言った。

 「加藤大将は私の最も信頼する畏友だ。この人が、かように証言している以上、私としてもこれを認めざるを得ない」。

 真崎大将は昭和十一年五月に検挙され、六月十一日、軍法会議は真崎大将を起訴と決定した。

 七月五日、真崎大将は代々木の陸軍衛戍刑務所に収監され、翌年九月二十五日の無罪判決の日まで囹圄(れいぎょ・獄舎)の人となった。

 真崎大将が無罪になったのは、軍の内外において真崎裁判は不当であったのであり、これを無罪にせよという論理が優勢になってきたからだ。

 真崎裁判は政治裁判としての本質が浮き彫りにされていたのだ。政界上層の真崎無罪論、真崎救出運動もあった。

 さらに天皇に対する上奏として、軍中央、軍司法の次のような弁明が行われた。

 「大御心を体し、叛乱者の頃幕として、真崎をこのように慎重に慎重を重ねて審理してまいりましたが、これ以上の追求は無理であり、かえって国軍の基礎をあやうくするものありと認めまするが故に、このあたりで終止符を打ちたいと存じます」。

 二・二六事件後の広田内閣の陸軍大臣になった寺内寿一大将(てらうち・ひさいち・山口・陸士一一・陸大二一・伯爵・朝鮮軍参謀長・中将・第五師団長・台湾軍司令官・大将・陸軍大臣・教育総監・北支那方面軍司令官・勲一等旭日大綬章・南方軍総司令官・元帥・マレーシアで拘留中に病死)は「真崎は絶対にいかん、真崎大将を死刑にするんだ」と言っていた。

 寺内大将は二・二六事件のとき参内して、天皇陛下に、「この事件の黒幕は真崎大将です」と上奏していたので、何としても真崎大将を有罪にするか、官位を拝辞させねばならぬ羽目に陥ったのだった。

 陸軍大臣・寺内大将は真崎裁判の裁判長に磯村年大将(いそむら・とし・滋賀・陸士四・陸大一四・野戦砲兵射撃学校長・浦塩派遣軍参謀長・中将・第一二師団長・東京警備府司令官・大将・予備役・東京陸軍軍法会議判事長)を任命した。

 磯村大将に寺内大将が「何でもかまわぬから、真崎を有罪にしろ」と言ったが、寺内大将より先輩の磯村大将は「そんな、調べもせんで有罪にしろというような裁判長なら引き受けられん」といって、公正な裁判を行った。後に「真崎には一点の疑うべき余地もなかった」と語っていた。このような状況によって真崎大将は無罪判決となった。

 真崎大将は戦後A級戦犯として巣鴨モプリズンに入所させられたが、不起訴処分となり軍人では一番先に釈放された。

 巣鴨モプリズンに収監中の昭和二十年十二月二十三日の真崎大将の日記には次のように記されていたという。

 「今日は皇太子殿下の誕生日である。将来の天長節である。万歳を祈ると共に、殿下が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設されんことを祈る」。

 真崎大将は昭和三十一年八月三十一日死去。葬儀委員長は荒木貞夫元大将が務めた。昭和天皇からは祭祀料が届けられた。

 (「真崎甚三郎陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「板倉光馬海軍少佐」が始まります)