陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

318.本間雅晴陸軍中将(18)日本の軍人の信条にぬぐうべからざる汚点を残すものである

2012年04月27日 | 本間雅晴陸軍中将
 捕虜はサンフェルナンドまでの六十キロを四、五日がかりで歩いた。一日十五キロ以内の、のろのろ行軍であったが、ジャングルにこもり、マラリアにかかっている捕虜には相当にきつい行軍となり、倒れる捕虜が続出した。

 これがマッカーサーの耳に入り、“バターン死の行進”として内外に宣伝された。知らなかったのは日本軍だけで、戦後戦犯として裁かれた本間雅晴中将は、起訴状を読んでも何のことか分からなかったといわれている。

 「マッカーサー回想記・上」(ダグラス・マッカーサー・朝日新聞社)によると、日本軍から脱出した三人の米兵が、ゲリラ隊に救出されて、潜水艦でオーストラリアのブリスベーンに輸送された。この三人がマッカーサー大将に捕虜のむごたらしい状況を報告した。この報告に対して、マッカーサー大将は次の様に記している。

 「この兵士たちの報告はショッキングなもので、私はその内容を次の様な声明といっしょに発表することを命じた」。

 マッカーサー大将が出した声明は次の様なものであった。

 「戦争捕虜に野蛮で残酷な暴虐行為が加えられたことを示す、この疑いの余地のない記録に接して、私は全身にいいようのない嫌悪の念を感じる。これは軍人の名誉をささえる最も神聖なオキテを犯す行為であり、日本の軍人の信条にぬぐうべからざる汚点を残すものである」

 「近代の戦争で、名誉ある軍職をこれほど汚した国はかってない。正義というものをこれほど野蛮にふみにじった者たちに対して、適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務だと私は心得ている」

 「全能の正義に満ちた神は、かならずや無力な将兵に対するこのおそるべき犯罪行為を罰し給うに違いない。抗すべからざる不利な状況の中で、気高く、勇敢な戦いをいどんだこの将兵たちを指揮したということは、私にとっては得がたい栄誉である」。

 マッカーサー大将は口を極めて日本軍の蛮行をなじっているが、マッカーサー大将の演出とも言われている。バターン半島から部下を捨てて逃げ出した自分の屈辱的な行為をカムフラージュするために、ことさらに暴き立てたという。

 だが、その日のうちに、ワシントンは、捕虜に対する暴虐行為の詳細を発表することを一切禁止した。従って、マッカーサー大将のこの声明は、発表されなかった。

 戦後、「バターン死の行進」の詳細が明るみに出て、本間雅晴中将は戦後戦犯に問われ、有罪になり銃殺刑になった。マッカーサーの報復であることは、この声明からも明らかである。

 この「バターン死の行進」について、第一四一連隊長・今井武夫大佐は次の様に回想している。

 「私たちは米比軍捕虜約六万人と前後しながら、同じ道を北方に進んだのです。捕虜は日本軍兵士に引率され、飯盒と炊事用具だけをぶら下げた軽装で、えんえんと続いていました。疲れれば道端に横たわり、争って木陰と水を求め、勝手に炊事を始めるなど、規律もなかったのです。のんきといえばのんきでした」

 「それを横目で見ながら進んできるわれわれ日本軍は、背嚢を背に、小銃を肩にした二十キロの完全装備で、隊伍を整えての行軍でした。正直いって捕虜の自由な行動がうらやましかった位です」

 「戦後、米軍から、これが“バターン死の行進”と聞かされ、初めは、米軍は他方面の行軍と間違えているのではないかと考えたほどで、この時の行軍を指したものだとは、思ってもみなかったのです」。

 第一四二連隊副官・藤田相吉大尉は次の様に述べている。

 「国道一五号線は南サンフェルナンドからバターン半島の東岸を、マニラ湾を包むように走る。舗装していないが、幅三十メートルの道は、半島突端マリベレスまで延びている。この本道に出て、米比軍捕虜が黙々と北上する姿を見た」

 「先頭も後尾もかすんで見えないほどおびただしい数だ。彼らは腰に水筒を一つぶらさげているだけだが、いかにも憔悴している。道路上に大柄な米兵がうつ伏して倒れているのもある。どの顔も不遜なやけっぱちな面構えだ」

 「彼らの護衛に任じる部隊は、わが吉沢支隊の第一大隊だ。護衛兵は、およそ、二十メートルの距離で、兵二人を彼らの右側に配置している。護衛兵の先頭は第一中隊の斉藤一少尉だ。日、米の兵は話ができないから、ただ黙々と進んでいく」

 「後日、“バターン半島死の行軍”として悪名高く、本間軍司令官が銃殺刑に処せられた“罪科”の一つにあげられたそれがこの米比軍捕虜の大移動だった」。