陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

316.本間雅晴陸軍中将(16)各部隊は手元にいる米比軍投降者を一律に射殺すべし

2012年04月13日 | 本間雅晴陸軍中将
 本間中将は、大いに抗弁したいところだったが、過去の経緯もあって、その場は沈黙を守って、表面は無事に袂を分かった。

 だが、その後に発生したバターン捕虜の取り扱いに当たり、本間中将は杉山大将の批判を想起し、寛大に失して再び中央の非難を浴びることを用心して、参謀が立案した後送方式を、少々酷いとは思いながら、黙許したと推察される。

 第二次のバターン攻撃は四月三日に始まった。日本軍はすさまじい大砲撃を行った後、第六五旅団と第四師団が突進した。

 「ふみにじられた南の島」(NHK取材班・角川書店)によると、昭和十七年四月上旬、フィリピンでは、極東アメリカ陸軍が、日本の本間雅晴中将の指揮する第十四軍に追い詰められて降伏しそうだ、という情報に接したマッカーサー大将は、マーシャル参謀総長宛に次のように打電した。

 「バターン作戦軍の降伏には、どんな状況のもとであろうと反対だ。もし、作戦軍が滅びるというのであれば、それは敵にあらゆる打撃を与えんがための戦闘においてであらねばならない。このために、私はとっくの昔、ひとつのまとまった計画を立てておいた」

 「それは、弾尽き、食尽きた場合に血路を開いてやろうというものであった。日本軍に奇襲攻撃を仕掛け、敵陣地を奪取し、軍需物資を奪う。……もし、失敗しても、ルソン島の北方において現に活動中の諸部隊と呼応し、ゲリラ戦を継続できるであろう。……もし、貴官が望むなら、私は喜んで一時的にバターン作戦軍のもとに帰り、上記戦闘行動を指揮する」(アメリカ国立公文書館所蔵電文より)。

 このマッカーサー大将が提案したゲリラ戦の構想は、実行されなかった。マッカーサーは回想記の中で、この提言をもしワシントンが承認していたら、あの恐るべき「死の行進」は絶対に起こらなかったに違いない、と記している。

 四月九日には、ルソン軍司令官・キング少将が白旗を掲げて現れた。キング少将はあくまでバターンにあるルソン軍だけの降伏を主張し、バターン以外の地域に関しては権限のないことを述べた。フィリピン軍の最高指揮官はウェインライト中将だった。

 これ以後バターン半島の米比軍は指揮中枢を失い、無秩序と混乱の中で、個々の部隊または個人として投降が行われた。

 「ルソンの苦闘―秘録比島作戦従軍一将校の手記」(藤田相吉・歩一四二刊行会)によると、当時、第六五旅団(旅団長・奈良晃中将)・第一四二連隊(連隊長・吉沢正太郎大佐)の副官であった著者の藤田相吉大尉(東京帝国大学卒)は、この投降の様子を次の様に述べている・

 「…『ハロー……』と、先方から先に言葉をかけてくる。見れば米軍の中尉だ。中尉はクリーニング店から出してきたばかりのような、ノリのよく効いた軍服を着ている」

 「ヒゲはそりたて、パリッとした格好、どう見ても負け戦をした側の将校とは思えない。それに引きかえ、こっちは何日もヒゲそりもしない、目ばかり異様にひからせている」

 「むらむらと敵愾心が起きるのをどうすることもできない。『何がハローだ』、まず一喝して、ブロークンな英語で、『君の部隊はどこにいるか。人員は何名か。君の名は』と矢継ぎ早の尋問をした」。

 米比軍の投降者は続出した。当時の第六五旅団・第一四一連隊連隊長は今井武夫大佐(陸士三〇・陸大四〇恩賜・少将・支那派遣軍総参謀副長)だった。

 今井武夫氏は戦後多数の戦時資料を保存しており、著書もある。「支那事変の回想」(みすず書房・昭和39年・55年)、「昭和の謀略」(原書房・昭和42年)。

 今井武夫氏の回想によると、昭和十七年四月九日、バターン半島の第一四一連隊は第二線部隊となっていた。

 そのとき既に米比人百五十人の捕虜がおり、米人軍医、トーマス・バレンチ大尉と日本軍医が協力して日米両軍の傷病兵の治療を行っていた。

 集団的に捕虜が日本軍の前に姿を現すようになったのは四月十日朝からであった。第一四一連隊正面だけでもたちまち千人を超えた。

 四月十日午前十時頃、今井武夫連隊長は、第六五旅団司令部から直通電話で、突然呼び出された。電話の相手は兵団の高級参謀・松永梅一中佐だった。松永中佐は次の様に命令を伝達した。

 「バターン半島の米比軍高級指揮官(ルソン軍司令官)キング少将は昨九日正午部隊をあげて降伏を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手元にいる米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ」。