昭和十二年十月、「蒙古連盟自治政府」が、十二月十四日、「中華民国臨時政府」が誕生した。「激流の孤舟」(豊田穣・講談社)によると、そこで、蒋介石との交渉を打ち切る動きが上層部に出てきた。
陸軍参謀本部第一部第一班は蒋介石との交渉継続を主張するため、「支那事変処理根本方針」案を作製して、御前会議で可否を決定することを提議した。
昭和十二年十二月三十日午後、陸軍参謀本部の堀場一雄陸軍少佐(陸士三四・陸大四二恩賜)は、外務省で、東亜局長・石射猪太郎、陸軍省軍務局軍務課長・柴山兼四郎陸軍大佐(陸士二四・陸大三四)、海軍省軍務局第一課長・保科善四郎海軍大佐(海兵四一・海大二三恩賜)の三人と会合した。
ところが、御前会議開催のことで、激論になった。保科海軍大佐は「なぜ、御前会議まで開く必要があるのか。すでに事変処理の方針は、第七十二議会で支那に反省を促す天皇の御詔書で明らかにされているではないか」とスジ論を述べた。御前会議は日露戦争以来開かれていなかった。
すると堀場陸軍少佐は「いや、依然として不明確であります。戦果による欲望の増長によって和平条件が変化するやに見える一点からもそれは明らかであります。このままでは、戦争終結などは望むべくもありません」と石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)仕込みの論法で一歩もひかぬ勢いで反発した。
保科海軍大佐は海軍のエリートで、温厚なタイプだが、堀場陸軍少佐の態度に、むっときて、反論し、激しい応酬になった。柴山陸軍大佐も時々堀場陸軍少佐に助け舟を出すが、拡大反対派の石射局長もその場の雰囲気に当惑した。
やがて、柴山陸軍大佐が所要で中座すると、保科海軍大佐も「ちょっと要務があるので本日は失礼する」と立ち上がり、帰ろうとした。
すると怒った堀場陸軍少佐は「保科課長! 要務とは何ですか。これほどの国家の重大事を後回しにしてよいほどの要務がほかにあるのですか。お待ちください!」と叫んだ。
「なにい。貴様、なにをいうか」。陸軍少佐のくせに、海軍の大佐に向って~、と保科海軍大佐は顔色を変えて、短剣に左手をかけた。
堀場陸軍少佐も身構え、拳をつくり、全身に気合をこめた。さすがに保科海軍大佐は短剣を抜かなかったが、その後も二人は激論を続けた。その結果、保科海軍大佐はやっと御前会議開催に同意した。
昭和十三年一月十一日の御前会議で和戦両様の「支那事変処理根本方針」が決定された。
「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、昭和十四年、日独伊三国同盟論議が盛んだった。軍令部三部八課(対英国情報)課長・西田正雄大佐(海兵四四3番・海大二六次席)は二年間の英国大使館付補佐官としてロンドン滞在の英国通だったが、英国滞在が長かったため返ってイギリス嫌いになった人だった。
三部八課部員の大井篤少佐(海兵五一・海大三四)は、英国には遠洋航海の指導官で立ち寄っただけだが、日本が英米を敵にまわして戦うとどうなるか知っていた。大井少佐は米国ヴァージニア大学ノースウエスタン大学で学んでいて、米国通であった。
その大井少佐と英国嫌いの西田課長は、よく議論した。興奮してくると、よく立ち上がって卓を叩いて議論した。アシスタントの吉田俊雄大尉(海兵五九)が「すごかったですねえ。課長相手にあそこまで食ってかかっていいんですか」と、あとで言ったりした。
その頃、ドイツ帰りの牛場信彦ら、三国同盟に熱を上げる若い外務事務官十数人が周囲を扇動し「ぜひ白鳥敏夫を外務大臣に」と運動していた。
白鳥は当時豪傑肌の革新外交官で、若手に人気があり、駐伊大使であった。有田八郎外相は省内の枢軸派に突き上げられ、孤立していた。
ある日牛場信彦らのリーダー格の外交官がドイツ転勤の送別会が柳橋の料亭で開かれることになり、情報交換のため、海軍側から大井少佐と吉田栄三中佐(海兵五〇・海大三二)が出席した。
最初のうちはあたらずさわらずの話題で和やかに飲んでいたが、やがて酔いがまわるにつれ、大井少佐のまわりには誰もいなくなり、外務省の中堅若手が向うで車座になり、歌を歌い出した。「上総が生める快男児 姓は白鳥名は敏夫」と手拍子たたいてやっている。
大井少佐は白鳥大使の影響力の強さに驚くとともに、ムカムカと不愉快になってきて「あんたたち、それで国士のつもりか。白鳥さんが何だ」と食ってかかった。
すると「何を」と、外務省の中堅若手連中も歌をやめて総立ちになり、「君のようなのがいるから海軍は腰抜けと言われるんだ」と叫んだ。
陸軍参謀本部第一部第一班は蒋介石との交渉継続を主張するため、「支那事変処理根本方針」案を作製して、御前会議で可否を決定することを提議した。
昭和十二年十二月三十日午後、陸軍参謀本部の堀場一雄陸軍少佐(陸士三四・陸大四二恩賜)は、外務省で、東亜局長・石射猪太郎、陸軍省軍務局軍務課長・柴山兼四郎陸軍大佐(陸士二四・陸大三四)、海軍省軍務局第一課長・保科善四郎海軍大佐(海兵四一・海大二三恩賜)の三人と会合した。
ところが、御前会議開催のことで、激論になった。保科海軍大佐は「なぜ、御前会議まで開く必要があるのか。すでに事変処理の方針は、第七十二議会で支那に反省を促す天皇の御詔書で明らかにされているではないか」とスジ論を述べた。御前会議は日露戦争以来開かれていなかった。
すると堀場陸軍少佐は「いや、依然として不明確であります。戦果による欲望の増長によって和平条件が変化するやに見える一点からもそれは明らかであります。このままでは、戦争終結などは望むべくもありません」と石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)仕込みの論法で一歩もひかぬ勢いで反発した。
保科海軍大佐は海軍のエリートで、温厚なタイプだが、堀場陸軍少佐の態度に、むっときて、反論し、激しい応酬になった。柴山陸軍大佐も時々堀場陸軍少佐に助け舟を出すが、拡大反対派の石射局長もその場の雰囲気に当惑した。
やがて、柴山陸軍大佐が所要で中座すると、保科海軍大佐も「ちょっと要務があるので本日は失礼する」と立ち上がり、帰ろうとした。
すると怒った堀場陸軍少佐は「保科課長! 要務とは何ですか。これほどの国家の重大事を後回しにしてよいほどの要務がほかにあるのですか。お待ちください!」と叫んだ。
「なにい。貴様、なにをいうか」。陸軍少佐のくせに、海軍の大佐に向って~、と保科海軍大佐は顔色を変えて、短剣に左手をかけた。
堀場陸軍少佐も身構え、拳をつくり、全身に気合をこめた。さすがに保科海軍大佐は短剣を抜かなかったが、その後も二人は激論を続けた。その結果、保科海軍大佐はやっと御前会議開催に同意した。
昭和十三年一月十一日の御前会議で和戦両様の「支那事変処理根本方針」が決定された。
「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、昭和十四年、日独伊三国同盟論議が盛んだった。軍令部三部八課(対英国情報)課長・西田正雄大佐(海兵四四3番・海大二六次席)は二年間の英国大使館付補佐官としてロンドン滞在の英国通だったが、英国滞在が長かったため返ってイギリス嫌いになった人だった。
三部八課部員の大井篤少佐(海兵五一・海大三四)は、英国には遠洋航海の指導官で立ち寄っただけだが、日本が英米を敵にまわして戦うとどうなるか知っていた。大井少佐は米国ヴァージニア大学ノースウエスタン大学で学んでいて、米国通であった。
その大井少佐と英国嫌いの西田課長は、よく議論した。興奮してくると、よく立ち上がって卓を叩いて議論した。アシスタントの吉田俊雄大尉(海兵五九)が「すごかったですねえ。課長相手にあそこまで食ってかかっていいんですか」と、あとで言ったりした。
その頃、ドイツ帰りの牛場信彦ら、三国同盟に熱を上げる若い外務事務官十数人が周囲を扇動し「ぜひ白鳥敏夫を外務大臣に」と運動していた。
白鳥は当時豪傑肌の革新外交官で、若手に人気があり、駐伊大使であった。有田八郎外相は省内の枢軸派に突き上げられ、孤立していた。
ある日牛場信彦らのリーダー格の外交官がドイツ転勤の送別会が柳橋の料亭で開かれることになり、情報交換のため、海軍側から大井少佐と吉田栄三中佐(海兵五〇・海大三二)が出席した。
最初のうちはあたらずさわらずの話題で和やかに飲んでいたが、やがて酔いがまわるにつれ、大井少佐のまわりには誰もいなくなり、外務省の中堅若手が向うで車座になり、歌を歌い出した。「上総が生める快男児 姓は白鳥名は敏夫」と手拍子たたいてやっている。
大井少佐は白鳥大使の影響力の強さに驚くとともに、ムカムカと不愉快になってきて「あんたたち、それで国士のつもりか。白鳥さんが何だ」と食ってかかった。
すると「何を」と、外務省の中堅若手連中も歌をやめて総立ちになり、「君のようなのがいるから海軍は腰抜けと言われるんだ」と叫んだ。