陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

167.米内光政海軍大将(7) 君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか

2009年06月05日 | 米内光政海軍大将
 一方、当時陸軍は議会政治そのものに、もはや見切りをつけていた。国防予算の審議でも真面目に答弁する気はなかった。

 海軍省軍務局長・豊田副武中将(海兵三三・海大一五)は「けだもの」とか「馬糞」とかいって陸軍のやり方を極端に毛嫌いしていた。作家の志賀直哉も陸軍批判の文章を中央公論なんかに発表している。

 陸軍の評判が悪いだけ、高くなったのが海軍の評判で、当時の重臣も海軍には「敬服」しているとの声も聞こえてきた。だが、陸軍参謀本部の中堅幕僚にしてみれば、重臣が敬服するような海軍の態度が面白くなかった。

 少し海軍に活を入れてやろうという魂胆か、陸軍の息のかかった壮士の羽織袴が、海軍省構内にちょいちょい見られるようになった。

 「米内海軍大臣閣下に会ってぜひとも申し上げたいことがある。取次ぎなさい」。

 当時、大臣副官の松永敬介少佐(海兵五〇・海大三二)が押しかけてくる彼ら壮士を適当にあしらってお引取り願ったら、

 「青二才の青年副官に追い返された」と厳重な抗議文が届くこともあった。

 昭和十二年六月四日、第一次近衛文麿内閣が成立した。主な閣僚は外相・廣田弘毅、蔵相・賀屋興宣、陸相・杉山元、海相・米内光政だった。

 米内は西園寺の私設秘書の原田熊雄に憤慨して言った。

 「どうも今回の組閣においても、陸軍の中枢どころ(武藤章、佐藤賢了など)が何か裏で工作して閣僚に注文をつけるのは実にけしからん」。

 四十七歳の近衛は藤原鎌足四十六代目の当主の公爵で、当時、貴公子と呼ばれていた。一高、東大、京大を出て、貴族院議員、同議長をつとめ、軍部にも、官僚にも好感を持たれていた。

 政党人や官僚は、近衛ならある程度陸軍を抑えられるだろうと期待していた。ところが陸軍は、近衛も天皇と同じように、表面は立てて、裏面では利用して、陸軍の操り人形にしようとしていた。

 近衛は首相の座と名誉に色気を持っていたため、八方美人に振舞っており、テロをひどく恐れ、陸軍の気を悪くさせまいとした。陸軍はそこにつけこんだのである。

 「米内光政」(高宮太平・時事通信社)によると、昭和十二年七月に盧溝橋事件が起きて日華事変の引き金となったが、第一次近衛内閣の、ある日の閣議のことである。

 拓務大臣・大谷尊由が「陸軍は一体どの線まで進出しようとするのか、それが分からなければ政府としては拱手傍観するばかりであるが~」と杉山元陸軍大臣(陸士一二・陸大二二)にたずねたが、杉山大臣は黙って答えない。

 見かねた米内海軍大臣が「氷定河と保定との線で停止することに内定している」と答えた。

 すると今まで沈黙を守っていた杉山陸軍大臣が「君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか」と怒鳴った、顔を真っ赤にして。

 米内海軍大臣はキット杉山陸軍大臣の顔を見返して苦笑するのみであった。

 杉山陸軍大臣は、統帥事項について閣議などで話すべきものではないと考えていた。こういうような考え方を是正することは、明治憲法に統帥権の独立を許している時代では不可能に近かった。政治と統帥が二本立てになっていたのである。

 二本立てになっていたのでは中国との戦争はできないと思った近衛文麿首相は大本営の設置を提案した。大本営はできたが、国務と統帥の対立は解消できなかった。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、そこで近衛首相は有力者を集めて戦時国策審議会である内閣参議制の設置を考えた。

 この参議の顔ぶれを揃えるに当たり、海軍からは末次信正海軍大将を採ることを考えた。近衛首相は、予め米内海軍大臣に謀ることなく、直接、末次信正大将海軍大将に交渉した。その後、近衛首相は米内海軍大臣に相談した。

 近衛首相が米内海軍大臣に対して、「海軍からは安保清種予備役大将と末次信正大将を採りたい」と相談すると、米内海軍大臣は即座に了承した。

 そして米内海軍大臣は付け加えて「末次大将が参議になる以上、予備役編入を奏請する。海軍としては、海軍大臣以外次官といえども、政治面に携わることは、容されない。況や無任所大臣にも似た参議に就任する以上、当然の処置として予備にする以外ありません」と言った。

 近衛総理はびっくりした。近衛総理は、末次は現役のままで参議になってもらえると思っていたので、予期しないことだった。

 近衛総理が「それでは海軍がお困りではありませんか」と米内海軍大臣に念を押すと、「少しも困りません」というので、取り付く島も無かった。すでに末次に内諾を得ているので、どうすることもできなかった。