陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

124.井上成美海軍大将(4) お父様はけんか早いからね

2008年08月08日 | 井上成美海軍大将
「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、昭和8年3月、伏見宮軍令部長から大角岑夫海軍大臣宛に「軍令部令及省部互渉規定改正」の商議が廻ってきた。

 これは軍令部長が宮様であることを楯に、軍令部次長の高橋三吉中将ら艦隊派が軍令部の権限強化を画策し、軍令部条例と省部互渉規定の改正案を条約派の占める海軍省に提出したものであった。

 軍令部長の伏見宮博恭王から「私の在職中でなければ恐らく出来まい、是非やれ」と言われたからである。

 軍令部からは「省部互渉規定改正案」を起草して検印せよと、反対する井上大佐のところへ毎日のように軍令部の使者がやって来た。

 その使者は軍令部第一班第二課長の南雲忠一大佐だった。南雲大佐は井上大佐より兵学校が一期上だった。

 井上大佐の部屋にきた南雲大佐のせりふは毎回「井上!早く判を押さんか!」だった。

 南雲大佐が机を叩いて要求しても、井上大佐は南雲大佐を静かに見据えるだけだった。

 とうとうしびれを切らした南雲大佐は井上大佐の机に手をかけ

 「井上、貴様のこの机、ひっくり返してやるぞ」と言った。

 「うん、やれよ」

 こんなやり取りを繰り返したあと、南雲大佐は

 「井上、貴様みたいな判らないやつは殺してやるぞ」と言った。

 すると井上大佐は

 「そんな脅しでへこたれるようで、今の私の職務が勤まるか。おい、君に見せたいものがある」

 そう言って遺書をおもむろに机の引き出しから取り出して見せた。

 「俺を殺しても俺の精神は枉げられないぞ」

 後日伏見宮邸で開かれた園遊会の帰りしなに、南雲大佐は酒気を帯びて井上大佐の前にきて凄んだ。

 「井上のばか。貴様なんか殺すの、何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやればそれっきりだ」

 井上大佐は命を掛けて抵抗していたが、宮様の威を借るごり押しに、大角岑生海軍大臣、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長も屈し、残るは井上大佐だけになった。

 寺島軍務局長の「枉げて同意してくれ」との要望も井上大佐は断った。「この案を通す必要があるなら、一課長をを代えたらいいでしょう」

 家に帰った井上大佐は娘の靚子(しずこ)に「海軍を辞めることになると思うが、お前に女学校だけは卒業させる」と言った。

 これに対して靚子は「お父様はけんか早いからね」と答えた。靚子を目に入れても痛くないほど可愛がっていた井上は、ただ苦笑いをしているだけだった。

 当時、靚子は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の付属に通っていた。聡明な靚子は父の性格をよく知っていた。また父親思いの控えめな女性であった。

 昭和8年9月20日、井上大佐は横須賀鎮守府付に発令され、二ヵ月後に練習戦艦「比叡」の艦長に転出した。

 昭和8年10月1日、「軍令部令及省部互渉規定改正案」が施行された。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、昭和8年11月15日、井上大佐は戦艦比叡艦長に発令された。

 井上大佐が比叡に着任すると、ロンドン会議反対派、つまり艦隊派の人たちが「井上が比叡艦長になったぞ。あいつは十一年も陸上勤務をやって、それで戦艦の艦長なんか務まるものか」と、悪口を言い出した。

 戦後、井上は、親しい後輩の中山定義(54期・中佐)に、比叡艦長のポストは「三十六期のクラスヘッド、佐藤市郎(兄弟宰相・岸信介・佐藤栄作の長兄)がなるところを、私が取っちゃったもんだから」ねたまれるのもうなずける、という意味のことを語っている。

 戦艦比叡は満州国皇帝のお召し艦を努めた。昭和10年3月25日、戦艦比叡は横須賀を出港し、大連まで皇帝を迎えに行き、4月6日横浜に入港。4月23日神戸港から皇帝を大連まで送り、5月4日、横須賀に帰港している。

 この航海中、井上の性格を顕著にする事件が起きた。