「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、昭和20年8月15日終戦の翌日、8月16日米国政府から「直ちに連合国最高司令官のもとに使者〈複数)を派遣せよ」との電報が届いた。
参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将を全権とした一行は8月19日、連合軍側の指定による全体白塗り、胴体に青十字を描いた塗装の海軍用陸攻二機でマニラに向け出発した(沖縄から米軍機に乗り換え)。
8月21日河辺全権ら一行は大本営に帰着した。持ち帰った分厚い連合軍命令書の中に、進駐軍の着陸を神奈川県厚木飛行場と定め、その進駐受け入れの為に、政府、大本営陸海軍部を代表する将官を差し出すべき指定の一項目が示されていた。
この初めて日本に飛来する進駐軍先遣隊を厚木飛行場に受け入れる、政府、大本営陸海軍部を代表する将官、対連合軍連絡委員長(厚木委員長)に有末精三(ありすえ・せいぞう)陸軍中将が任命された。有末中将は終戦時、参謀本部第二部長であった。
だが、当時の総理大臣、東久邇宮から陸軍次官の若松只一中将に「有末はムッソリーニ氏の親友であり、ファシストじゃあないか、米軍との関係が不首尾にならんかネェ」と難色がでた。
梅津参謀総長は「有末以外に適任者はありません。海軍からお出し下さい」と言った。豊田副武軍令部総長は「海軍には適任者もなく、ぜひ陸軍よりお願いしたい」。
重光外務大臣は「彼はムッソリーニ氏と親交はあったが、ファシストではない。国際的感覚で彼の右に出るものはありますまい」とのことで、有末中将に厚木委員長が決定した。
厚木飛行場は海軍航空隊の大規模航空基地だが、小園海軍大佐ら降伏に反対する一派が立てこもっていた。だが、8月23日に高松宮殿下の説得により、解放された。
8月24日夕刻、厚木委員長・有末精三陸軍中将は厚木飛行場に着任した。飛行隊司令部等の兵舎の窓ガラスはメチャクチャに壊され、建物は空き家同然となっていた。
その兵舎の中で十五人あまりの委員が卓を囲んで、有末中将を中心に会議を開いた。有末中将は、委員の任務を分担して、計画案を立案させ、夜中の十二時までに報告を要求した。
そして、はじめて飛来する進駐軍先遣隊に対して、絶対に無法な抵抗を禁じ、無事に受け入れが出来るよう指示した。
すると、軍令部の若いI参謀(少佐)が立ち上がって、有末中将の側に来て、肘で有末中将の脇腹をつついて「何ンダ将軍ずらをして、ダラ幹じゃないか」と言った。
I参謀も委員の一人に選ばれているのだが、なんとなく胸糞の悪い思いを、有末中将にはけ口として突っかかってきたのだ。
有末中将は「まあ、不平はとにかく、早く晩の兵食でも世話してくれんか」となだめた。だが実に重苦しい何ともいえぬ雰囲気であった。丁度、山澄大佐がすぐにそのI参謀を引っ張って、炊事の方へ連れて行き、兵食の世話をしてくれた。
すこし前まで、厚木基地では「徹底抗戦」「マッカーサー機に体当たり」など不穏な空気があった。
厚木委員会は進駐軍受け入れのための準備に全力を尽くした。飛行場の整備、米軍将校の宿舎、食糧、警備、接待方法などあまりにも時間が足りなかった。
8月28日に最初に飛来する進駐軍先遣隊にはマッカーサーはいなくて、マッカーサーは先遣隊到着後の30日に到着する予定だった。
初めて日本にやってくる米軍を主とする進駐軍先遣隊は、非常に緊張していたと言われている。降伏を受け入れた日本だが、いつ寝返るとも分からない。厚木基地に着陸した途端に人質に取られる可能性もある。
そのような情勢の中、8月28日を迎えた。午前七時、有末中将ら委員一同は、飛行場に設営された天幕の指揮所に集まって受け入れの最終打ち合わせを行っていた。
そのとき早くも横須賀に米第七艦隊の先発軍艦が入港し、戸塚道太郎横須賀鎮守府長官一行が米艦を訪問したところ、米兵からいやがらせのトラブルを受けたとの報告が入ってきた。
有末中将らも先遣隊の米軍指揮官らの有末らに対する応対がどの様なものであるか不安であった。当日は早朝から厚木飛行場の上空を米戦闘機グラマンがまさに乱舞していた。低空飛行をした一機が一本の通信筒を落とした。
有末中将が検分してみると、中に「well come 8th army」と書かれていた。この意味は、日本に進駐一番乗りをしたのは米海軍であるので、厚木に飛来する正式の進駐軍である米陸軍(第八軍)に対して、「ようこそ」とメッセージを送ったものだった。有末中将はこのような米軍同士の先遣争いがトラブルの元になると思い、このメッセージを握りつぶした。
8月28日午前八時、厚木飛行場の西南方向の一点から爆音が聞こえてきた。進駐軍先遣隊の輸送機だった
参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将を全権とした一行は8月19日、連合軍側の指定による全体白塗り、胴体に青十字を描いた塗装の海軍用陸攻二機でマニラに向け出発した(沖縄から米軍機に乗り換え)。
8月21日河辺全権ら一行は大本営に帰着した。持ち帰った分厚い連合軍命令書の中に、進駐軍の着陸を神奈川県厚木飛行場と定め、その進駐受け入れの為に、政府、大本営陸海軍部を代表する将官を差し出すべき指定の一項目が示されていた。
この初めて日本に飛来する進駐軍先遣隊を厚木飛行場に受け入れる、政府、大本営陸海軍部を代表する将官、対連合軍連絡委員長(厚木委員長)に有末精三(ありすえ・せいぞう)陸軍中将が任命された。有末中将は終戦時、参謀本部第二部長であった。
だが、当時の総理大臣、東久邇宮から陸軍次官の若松只一中将に「有末はムッソリーニ氏の親友であり、ファシストじゃあないか、米軍との関係が不首尾にならんかネェ」と難色がでた。
梅津参謀総長は「有末以外に適任者はありません。海軍からお出し下さい」と言った。豊田副武軍令部総長は「海軍には適任者もなく、ぜひ陸軍よりお願いしたい」。
重光外務大臣は「彼はムッソリーニ氏と親交はあったが、ファシストではない。国際的感覚で彼の右に出るものはありますまい」とのことで、有末中将に厚木委員長が決定した。
厚木飛行場は海軍航空隊の大規模航空基地だが、小園海軍大佐ら降伏に反対する一派が立てこもっていた。だが、8月23日に高松宮殿下の説得により、解放された。
8月24日夕刻、厚木委員長・有末精三陸軍中将は厚木飛行場に着任した。飛行隊司令部等の兵舎の窓ガラスはメチャクチャに壊され、建物は空き家同然となっていた。
その兵舎の中で十五人あまりの委員が卓を囲んで、有末中将を中心に会議を開いた。有末中将は、委員の任務を分担して、計画案を立案させ、夜中の十二時までに報告を要求した。
そして、はじめて飛来する進駐軍先遣隊に対して、絶対に無法な抵抗を禁じ、無事に受け入れが出来るよう指示した。
すると、軍令部の若いI参謀(少佐)が立ち上がって、有末中将の側に来て、肘で有末中将の脇腹をつついて「何ンダ将軍ずらをして、ダラ幹じゃないか」と言った。
I参謀も委員の一人に選ばれているのだが、なんとなく胸糞の悪い思いを、有末中将にはけ口として突っかかってきたのだ。
有末中将は「まあ、不平はとにかく、早く晩の兵食でも世話してくれんか」となだめた。だが実に重苦しい何ともいえぬ雰囲気であった。丁度、山澄大佐がすぐにそのI参謀を引っ張って、炊事の方へ連れて行き、兵食の世話をしてくれた。
すこし前まで、厚木基地では「徹底抗戦」「マッカーサー機に体当たり」など不穏な空気があった。
厚木委員会は進駐軍受け入れのための準備に全力を尽くした。飛行場の整備、米軍将校の宿舎、食糧、警備、接待方法などあまりにも時間が足りなかった。
8月28日に最初に飛来する進駐軍先遣隊にはマッカーサーはいなくて、マッカーサーは先遣隊到着後の30日に到着する予定だった。
初めて日本にやってくる米軍を主とする進駐軍先遣隊は、非常に緊張していたと言われている。降伏を受け入れた日本だが、いつ寝返るとも分からない。厚木基地に着陸した途端に人質に取られる可能性もある。
そのような情勢の中、8月28日を迎えた。午前七時、有末中将ら委員一同は、飛行場に設営された天幕の指揮所に集まって受け入れの最終打ち合わせを行っていた。
そのとき早くも横須賀に米第七艦隊の先発軍艦が入港し、戸塚道太郎横須賀鎮守府長官一行が米艦を訪問したところ、米兵からいやがらせのトラブルを受けたとの報告が入ってきた。
有末中将らも先遣隊の米軍指揮官らの有末らに対する応対がどの様なものであるか不安であった。当日は早朝から厚木飛行場の上空を米戦闘機グラマンがまさに乱舞していた。低空飛行をした一機が一本の通信筒を落とした。
有末中将が検分してみると、中に「well come 8th army」と書かれていた。この意味は、日本に進駐一番乗りをしたのは米海軍であるので、厚木に飛来する正式の進駐軍である米陸軍(第八軍)に対して、「ようこそ」とメッセージを送ったものだった。有末中将はこのような米軍同士の先遣争いがトラブルの元になると思い、このメッセージを握りつぶした。
8月28日午前八時、厚木飛行場の西南方向の一点から爆音が聞こえてきた。進駐軍先遣隊の輸送機だった