陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

68.南雲忠一海軍中将(8) 草鹿君、逝かしてくれい、武士の情けだ

2007年07月06日 | 南雲忠一海軍中将
 12月24日、山本司令長官は永野修身軍令部総長とともに、空母赤城を訪れた。

 山本は赤城の舷梯を登り、艦内に一歩踏み入れると同時に「これはいかん」と思った。彼が感じたのは士気よりも驕りであった。

 山本長官は、赤城の長官公室に参集した各級指揮官を、きびしい表情で眺めた。そして次のように話した。

 「緒戦には幸いに一勝できたが、戦争は長期戦であり、これからが、真の戦いである。幸運の一勝に驕ってはいかん。勝って兜の緒を締めよ、という言葉を忘れてはいけない。勝利を得て凱旋したなどと考えてはいかん。次の戦闘準備のため、一時帰投したのである。一層戒心して事に当たるよう希望する」

 これが山本司令長官の訓示であった。戦利を誉めるでもなく、労苦をねぎらうでもない。叱咤激励に近い口調であった。

 これについて「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、阿川弘之著の「山本五十六」の内容を引用し、赤城の長官公室に参集した各級指揮官への山本司令長官の訓示について、次のように批判している。

 「態度や言葉が、いかにも冷酷で、これは南雲中将に対する積年の公怨私怨がこめられているようである」と。

 「悲劇の南雲中将」(徳間書店)の著者、松島慶三氏(海兵45期・海大卒・元海軍報道部長)は、「山本五十六と同期で親友の堀悌吉を、ロンドン軍縮会議のときに首を切った艦隊派の加藤寛治、末次信正の一派が南雲長官であった」と述べている。

 さらに「しかし、当時軍令部の一課長にすぎない、南雲大佐がその実力があったかどうか」とも記している。

 また松島氏は山本五十六について、「世紀の大事業たる真珠湾攻撃の功罪にかかる私怨をさしはさむほど連合艦隊司令長官たる山本五十六大将は小人物ではなかった」と述べている。

 なお、このあと一悶着があった。真珠湾攻撃後の航空機搭乗員の二階級進級問題である。

 機動部隊の草鹿参謀長と、軍令部の福留部長や人事局との間に「約束が違う」という衝突が起った。

 これは真珠湾攻撃前に福留部長が「真珠湾攻撃が成功したら、全員二階級特進させるから、必ず成功させてくれ」と発言した。

 それで、結果的に二階級特進はなくなったので、草鹿参謀長の「約束が違う」となったのである。

 だが、これは福留部長だけの口約束で、実際は上部との連絡が取れていなかったのである。

 真珠湾攻撃の大成功に、日本内地では、軍人も国民も熱狂、歓喜の渦であった。

 だが、そんな中、敵空母を逃した事に、きびしい批判をしたのは、横須賀航空隊司令の上野敬三少将だったと言われている。

 また、後日、南雲長官が永野修身軍令部総長会ったとき、永野総長は真珠湾攻撃の「一撃避退」に不満を漏らしたとも言われている。

 昭和17年6月5日~7日 ミッドウェイ海戦で南雲長官の機動部隊は空母四隻を失い大敗した。

 軽巡長良に移った南雲司令部に対して連合艦隊はミッドウェイ作戦の中止を命じた。

 南雲長官は命令を受け取ると、司令官公室に引き篭もった。

 草鹿参謀長は南雲長官が短剣に真刀を仕込んでいるのを聞いていたので、司令官公室に向かった。

 中に入ると「作戦の失敗は誰にあると思う。わしはこの日の為に用意してきた」と言って、短剣を抜き鞘を払った。

 ほの暗い灯りの中で相州物の真剣がにぶく光っていた

 長官、いけません」草鹿参謀長は、その短剣を取り上げようとした。

 「なにをするか」南雲長官は抵抗したが、山岡鉄舟の無刀流を修練した草鹿参謀長に短剣を取り上げられた。

 「草鹿君、逝かしてくれい、武士の情けだ」

 「だめです、長官。仇をとりましょう。空母もまだ翔鶴と瑞鶴があります。搭乗員も淵田、村田、江草などのベテランが残っています。もう一回だけやってみましょう」

 南雲長官は「うむ」と言って草鹿参謀長から短剣を受け取り鞘に収めたという。

 6月10日、軽巡長良は戦艦大和と海上で会合し、草鹿参謀長は大和に乗り移り、山本五十六長官に報告した。

 草鹿参謀長は負傷しており、もっこにかつがれていた。

 山本長官は南雲長官と草鹿参謀長をもう一度作戦に参加させる事を了承した。

 そのあと宇垣参謀長が草鹿参謀長を自室に呼んだ。