2018年1月14日(日)主日礼拝(エペソ2:1~10)岡田邦夫
「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:5~6)
「ありがとう」を漢字で書くと、有と難で「有難う」という風になります。元々は、読んで字のごとく滅多にない、珍しくて貴重だ、という意味の「有り難し」という言葉でした。「有り難し」とか「有り難き」といった言葉自体の歴史は古く、平安時代の随筆「枕草子」において「ありがたきもの」というのがありますが、これは上述の「滅多にない」という本来の意味に近く「この世にあるのが難しい」という意味で使われておりました。
私たちがいただいた救いの恵みというのは、本当にあり得ないこと、有り難きこと、感謝しても感謝しきれないことです。それを言っているのが今日の聖書です。
◇神の怒りの下で…罪過と罪との中に死んでいた
テレビで何かのテーマで番組が進行し、「ことの真相は…」「驚愕の事実が…」と見せ場を作っているものがあります。しかし、私たちは他人事ではなく、私たち自身のこととして、イエス・キリストによる救いの出来事が驚愕の事実なのです。毎週、礼拝ごとに語られていくべきものなのです。エペソ人への手紙2章にスポットライトをあてて見てみましょう。
まず、神の目から見た人間の霊的な現実は実に悲劇的なのです。何とも気付かずかずに生きていますが、身震いするような恐ろしい状況に置かれているというのが神の前の人間の真相です。すでにクリスチャンになった者たちに以前はこんなだったと告げます(2:1-3)。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(サタン)に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
サタンに従い、神に対して不従順であり、神に反逆し、自己中心に生き、神の怒りを受け、滅びに向って生きている、霊的には死んだ者でした。最悪の状態でした。受け入れがたいけれど、それが事実でした。
◇神の愛の中で…復活して天上に座している
次の衝撃の事実は神の愛です(2:4-5)。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」。私たち人間が絶対許せないとカンカンに怒っていて、その人を愛せるでしょうか、許せるでしょうか。しかし、神は計り知れない大きな愛をもって、十字架において、私たちの罪をお赦し下さったのです。それが計り知れない恵みです。あわれみです。
母から聞かされたことです。私の父は早く両親に死に別れ、親戚の家にあちこち養子に行くのですが、落ち着かない。そこで、職を手に付けさせ、板前になります。仕事が終わると花札賭博にふける。借金が重なると、包丁一本と風呂敷包みで夜逃げをし、次の店に行くという有様。ひと一旗揚げようと、英会話の本を懐に入れて、横浜港から密航しようとしたら、親戚に見つかり、呼び戻される。それを知った馴染みの客、岡田というかくしゃくとした女性が現れた。「銀ちゃん、小石川にうなぎ屋をだしな。嫁さんも世話するよ」。口を出したが、金も出してくれた。場所が良くなくて、店はたたむことに。決心した。養子にしてくれた彼女の経営する工場で地道に働こう。あれだけきれいにしていた手は、石鹸であらっても落ちないほど真っ黒になった。
ふてくされて生きていて、親戚のやっかいものだった自分を拾い上げてくれた彼女の愛情を生涯忘れることはなく、神のように手を合わせていた。私がクリスチャンになって、伝道しましたが、そちらの思いが強すぎて、受け入れてはくれませんでした。残念でしたが、愛は人生を変えるのと知らされました。まして、神のどれほど大きな愛で私たちを愛しておられるでしょうか。
さらに、ここには思いもよらぬ救いの事実が述べられているのです(2:5-6)。死人がよみがえるなど、人類史上、それこそあり得ないことです。ところが、主キリストは死人の中から栄光のからだよみがえり、天の神の右に座られたのです。それは天にお帰りになっただけではなく、私たちをともなうためでした。驚きの真正の救いです。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。
◇神の御霊の中で…神の作品、み住まいになる
以上は自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではなく、恵みのゆえに、信仰によって救いをいただいたのです。
では神にとってはというと、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(2:10)。レオナルド・ダ・ヴィンチが、死ぬまで手放さなかった絵が3枚ありました。「聖アンナと聖母子」「モナリザ」「洗礼者ヨハネ」です。お気に入りだったのでしょう。私たちはイエス・キリストによって造られた神のお気に入りの作品です。決して、手放さないのです。
父は血のつながりではない養子になりました。法的に親子でした。イスラエルは神に選ばれ、契約が結ばれ、神の民となった民でした。契約の民としての約束があり、律法(割礼を含む)がありました。神に近いものでした。その意味で私たち異邦人は神に遠いものでした。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(2:13)。この両者を隔てている規定(古い律法)という壁をご自身の犠牲をもって打ちこわし、敵意を廃棄され、平和の関係に導かれたのです。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18)。実に神の家族です。
また、私たちは、キリスト・イエスご自身を礎石にし、使徒と預言者を土台にし、キリストにあって、組み合わされ、成長し、主にある聖なる宮(神殿)となるのです。「御霊によって神の御住まいとなるのです」(2:22)。もはや神の怒りはまったく消え、神の平和が満ちた、神にとって、居心地の良いみ住まいとなるのです。聖にして、無限の神がどうやって住まわれるのでしょう。私たちには不思議でたまりません。驚愕のみ業が進行中なのです。
まずはこの大いなる恵みを知ることです。そうするとそれにふさわしい生き方が出来ていきます。パウロの祈りを私たちの祈りとしましょう。「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(3:17b-19)。
「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:5~6)
「ありがとう」を漢字で書くと、有と難で「有難う」という風になります。元々は、読んで字のごとく滅多にない、珍しくて貴重だ、という意味の「有り難し」という言葉でした。「有り難し」とか「有り難き」といった言葉自体の歴史は古く、平安時代の随筆「枕草子」において「ありがたきもの」というのがありますが、これは上述の「滅多にない」という本来の意味に近く「この世にあるのが難しい」という意味で使われておりました。
私たちがいただいた救いの恵みというのは、本当にあり得ないこと、有り難きこと、感謝しても感謝しきれないことです。それを言っているのが今日の聖書です。
◇神の怒りの下で…罪過と罪との中に死んでいた
テレビで何かのテーマで番組が進行し、「ことの真相は…」「驚愕の事実が…」と見せ場を作っているものがあります。しかし、私たちは他人事ではなく、私たち自身のこととして、イエス・キリストによる救いの出来事が驚愕の事実なのです。毎週、礼拝ごとに語られていくべきものなのです。エペソ人への手紙2章にスポットライトをあてて見てみましょう。
まず、神の目から見た人間の霊的な現実は実に悲劇的なのです。何とも気付かずかずに生きていますが、身震いするような恐ろしい状況に置かれているというのが神の前の人間の真相です。すでにクリスチャンになった者たちに以前はこんなだったと告げます(2:1-3)。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(サタン)に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
サタンに従い、神に対して不従順であり、神に反逆し、自己中心に生き、神の怒りを受け、滅びに向って生きている、霊的には死んだ者でした。最悪の状態でした。受け入れがたいけれど、それが事実でした。
◇神の愛の中で…復活して天上に座している
次の衝撃の事実は神の愛です(2:4-5)。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」。私たち人間が絶対許せないとカンカンに怒っていて、その人を愛せるでしょうか、許せるでしょうか。しかし、神は計り知れない大きな愛をもって、十字架において、私たちの罪をお赦し下さったのです。それが計り知れない恵みです。あわれみです。
母から聞かされたことです。私の父は早く両親に死に別れ、親戚の家にあちこち養子に行くのですが、落ち着かない。そこで、職を手に付けさせ、板前になります。仕事が終わると花札賭博にふける。借金が重なると、包丁一本と風呂敷包みで夜逃げをし、次の店に行くという有様。ひと一旗揚げようと、英会話の本を懐に入れて、横浜港から密航しようとしたら、親戚に見つかり、呼び戻される。それを知った馴染みの客、岡田というかくしゃくとした女性が現れた。「銀ちゃん、小石川にうなぎ屋をだしな。嫁さんも世話するよ」。口を出したが、金も出してくれた。場所が良くなくて、店はたたむことに。決心した。養子にしてくれた彼女の経営する工場で地道に働こう。あれだけきれいにしていた手は、石鹸であらっても落ちないほど真っ黒になった。
ふてくされて生きていて、親戚のやっかいものだった自分を拾い上げてくれた彼女の愛情を生涯忘れることはなく、神のように手を合わせていた。私がクリスチャンになって、伝道しましたが、そちらの思いが強すぎて、受け入れてはくれませんでした。残念でしたが、愛は人生を変えるのと知らされました。まして、神のどれほど大きな愛で私たちを愛しておられるでしょうか。
さらに、ここには思いもよらぬ救いの事実が述べられているのです(2:5-6)。死人がよみがえるなど、人類史上、それこそあり得ないことです。ところが、主キリストは死人の中から栄光のからだよみがえり、天の神の右に座られたのです。それは天にお帰りになっただけではなく、私たちをともなうためでした。驚きの真正の救いです。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。
◇神の御霊の中で…神の作品、み住まいになる
以上は自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではなく、恵みのゆえに、信仰によって救いをいただいたのです。
では神にとってはというと、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(2:10)。レオナルド・ダ・ヴィンチが、死ぬまで手放さなかった絵が3枚ありました。「聖アンナと聖母子」「モナリザ」「洗礼者ヨハネ」です。お気に入りだったのでしょう。私たちはイエス・キリストによって造られた神のお気に入りの作品です。決して、手放さないのです。
父は血のつながりではない養子になりました。法的に親子でした。イスラエルは神に選ばれ、契約が結ばれ、神の民となった民でした。契約の民としての約束があり、律法(割礼を含む)がありました。神に近いものでした。その意味で私たち異邦人は神に遠いものでした。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(2:13)。この両者を隔てている規定(古い律法)という壁をご自身の犠牲をもって打ちこわし、敵意を廃棄され、平和の関係に導かれたのです。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18)。実に神の家族です。
また、私たちは、キリスト・イエスご自身を礎石にし、使徒と預言者を土台にし、キリストにあって、組み合わされ、成長し、主にある聖なる宮(神殿)となるのです。「御霊によって神の御住まいとなるのです」(2:22)。もはや神の怒りはまったく消え、神の平和が満ちた、神にとって、居心地の良いみ住まいとなるのです。聖にして、無限の神がどうやって住まわれるのでしょう。私たちには不思議でたまりません。驚愕のみ業が進行中なのです。
まずはこの大いなる恵みを知ることです。そうするとそれにふさわしい生き方が出来ていきます。パウロの祈りを私たちの祈りとしましょう。「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(3:17b-19)。