2017年7月23日 伝道礼拝(コリント人への手紙第二1:3~7)岡田邦夫
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」(第2コリント1:3)
息子が猫カフェに行ったというのです。くつろいできたとか…。以前、我が家で猫(名はロッシ)を飼っていたからです。息を引き取る時に添い寝をしてあげたほど可愛がっていました。亡くなった朝、友達のお隣の猫(トラちゃん)が家の中は見えないのに、なぜか中庭でこちらを向いてずーっと座っておりました。その猫カフェに来ていた人から聞いた話です。アニメ「火垂るの墓」はすごく感動して観たが、あまりにも可哀相なので、二度と観たくないとの話、同感して聞いていたとのことです。
※『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説。野坂自身の戦争原体験を題材した作品である。兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している。そのアニメーション。
◇イエスの「かわいそうに」が人を救う…群衆を見て
「可愛い」というのと「可哀相」は何となくつながっているような気がします。辞書では…「可愛い」はいとおしさ、趣き深さなど、何らかの意味で「愛すべし」と感じられる場合に用いられる。また、「かわいそう」と関連するという考え方もある。現代語の「かわいい」に該当する古語の「かはゆし(かわゆし)」は、「いたわしい」など相手の不幸に同情する気持ちを指す。ついでに、「かわいそう」(可哀相は当て字)は弱い立場にある者に対して同情を寄せ,その不幸な状況から救ってやりたいと思うさま。同情をさそうさま。
なぜ、このようなこと言いますかというと、イエス・キリストのところには大勢の病人がやってきて、癒されていきました。また、話を聞きたいと集まってきました。そういう人たちに対して、どんなお気持ちで接しておられたのだろうかと思うからです。その答えの一つが「かわいそう」です。
マタイ福音書15:29からのところを見てみましょう。「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると、大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。それで、群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て、驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた」。宗教家としてみたら、たいへんな盛況です。しかし、イエスは救い主、そのみ思いを告げるのです。
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。』」(マタイ15:32)。あるのは7つのパンと小魚が少し。イエスが感謝し、弟子たちが群衆に配ると、みな満腹し、パン切れの余りが、7つのかご、いっぱい。食べた人、男性だけで四千人、女性と子供を入れたら、もっとの数でした。神の国がいかに恵みに満ちたところであるかを証しする、たいへんな奇跡でした。
主イエスの動機は「かわいそうに」です。孫が保育園で何かの拍子にあおむけに倒れ、硬いところに後頭部を打ち、脳震とうを起こしました。病院で検査しても何も問題はありませんでした。その様子をみていたお母さんたちが「お気の毒ね」と話していたのを耳にした孫が母親に質問。「おきのどくって、どんな毒?」。シンデレラではあるまいし…。脳に異常はなかったから、笑える話ですがね。主イエスは単に気の毒だから、この事をされたのではなく、可哀相だからであり、その四千人以上の群衆とはいえ、ひとりひとりが可愛いと深く思われていたからです。単に世間をびっくりさせようとした奇跡ではなく、個々人をこよなく愛し、個々人を満服、満足させたかったからです。結果が四千人以上だったというわけです。そういう風に、あなたも私もかけがいのない可愛い存在なのに、罪と死と滅びに向かっているのです。「かわいそうに」と思われ、命をかけて、そこから、救い出しますと十字架にかけられ、救いの満足に至るようにと導かれたのです。
◇イエスの「かわいそうに」が人を救う…ご自分を見せて
さて、この「かわいそう」の言語“スプラグクニゾマイ”は他の個所では「深い同情をよせる」と訳されています。上から目線のような可哀相ではなく、同情があるのです。情が同じ、同じ苦しい体験や思いがあって、心が響くのです。共感です。共鳴です。
私、四国の教会におりました時に、明治生まれの女性の牧師が名誉牧師でした。いくつも教会を開拓され、たいへん元気な先生でした。もう少し若かった時、北条と松山の間にある急坂(三田でいうならつつじが丘に上っていく坂)を元気な若い牧師と自転車で競争しました。若い牧師もさずがに疲れて、足をついてしまいます。しかし、その老牧師、「サムソンの力、サムソンの力」と言いながら、一度も足をつかずに上り切ってしまったのです。その元気牧師、病める人がいるから祈ってくださいと求めてくると、その人のために徹夜してお祈りされました。聖書のみ言葉を約束としていただくと、それを頼りに一晩中声を出して、膝を叩いて祈るのです。翌朝になると、膝が痛いという程でした。それで奇跡的に癒されるがことが多くありました。
個性の強い先生でしたから、私にはたいへん苦手な方でした。しかし、なぜ、こんなに祈られるのだろうか、後になって思わされました。素朴に「かわいそう」と思われたからに違いないと…。ご自分も辛いところを通られたからです。結婚されて、相手の方が結核で亡くなり、自分も結核になり、治らないと宣告されていました。そのような様子を知ったある方が、家に来ないか、引き受けましょうというので、行きました。その方、クリスチャンでした。個人伝道をされまして、彼女は神に立ち返り、イエス・キリストを救い主と信じました。そうしたら、内側から、今まで味わったことのない喜びにあふれました。
そのあと導かれて、この病が癒されよう祈ると、奇跡が起こり、すっかり結核は治ってしまいました。その後、伝道者になられたのです。不治の病と宣告され、苦悩し、絶望し、孤独の中にいた自分が隣人に見いだされ、イエス・キリストに導かれて救われた。だからこそ「かわいそうに」思って、救いと癒しを祈られたのだ、素朴で確かなものがあったのだと思います。
それ以上に、イエス・キリストは私たちのあらゆる病(肉体的にも精神的にも霊的にも)をご自分の身に負われました。存在の底の底にある私たちの神への罪を身に負い、神にたたかれ、神に見捨てられました。私たちを可愛いと思われ絶望の淵まで行かれました。十字架です。それは私たちを深く知り、同情し、共鳴し、そこから、救い上げ、癒すためでした。ですから、復活されたのです。
冒頭の聖書:「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神」の慰めるは「傍らから呼ぶ」(パラカレオー)です。病める苦しい状況にある者の傍らに主イエスはおられるのです。魂の苦悩を真に100パーセント共感しておられるのです。傍らということは逆の共感もあるのです。慰めの神のみ思いに聖霊によって共感させられるのです。神様、感謝します。神様、あなたを愛しますという時に起こるのです。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」(第2コリント1:3)
息子が猫カフェに行ったというのです。くつろいできたとか…。以前、我が家で猫(名はロッシ)を飼っていたからです。息を引き取る時に添い寝をしてあげたほど可愛がっていました。亡くなった朝、友達のお隣の猫(トラちゃん)が家の中は見えないのに、なぜか中庭でこちらを向いてずーっと座っておりました。その猫カフェに来ていた人から聞いた話です。アニメ「火垂るの墓」はすごく感動して観たが、あまりにも可哀相なので、二度と観たくないとの話、同感して聞いていたとのことです。
※『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説。野坂自身の戦争原体験を題材した作品である。兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している。そのアニメーション。
◇イエスの「かわいそうに」が人を救う…群衆を見て
「可愛い」というのと「可哀相」は何となくつながっているような気がします。辞書では…「可愛い」はいとおしさ、趣き深さなど、何らかの意味で「愛すべし」と感じられる場合に用いられる。また、「かわいそう」と関連するという考え方もある。現代語の「かわいい」に該当する古語の「かはゆし(かわゆし)」は、「いたわしい」など相手の不幸に同情する気持ちを指す。ついでに、「かわいそう」(可哀相は当て字)は弱い立場にある者に対して同情を寄せ,その不幸な状況から救ってやりたいと思うさま。同情をさそうさま。
なぜ、このようなこと言いますかというと、イエス・キリストのところには大勢の病人がやってきて、癒されていきました。また、話を聞きたいと集まってきました。そういう人たちに対して、どんなお気持ちで接しておられたのだろうかと思うからです。その答えの一つが「かわいそう」です。
マタイ福音書15:29からのところを見てみましょう。「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると、大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。それで、群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て、驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた」。宗教家としてみたら、たいへんな盛況です。しかし、イエスは救い主、そのみ思いを告げるのです。
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。』」(マタイ15:32)。あるのは7つのパンと小魚が少し。イエスが感謝し、弟子たちが群衆に配ると、みな満腹し、パン切れの余りが、7つのかご、いっぱい。食べた人、男性だけで四千人、女性と子供を入れたら、もっとの数でした。神の国がいかに恵みに満ちたところであるかを証しする、たいへんな奇跡でした。
主イエスの動機は「かわいそうに」です。孫が保育園で何かの拍子にあおむけに倒れ、硬いところに後頭部を打ち、脳震とうを起こしました。病院で検査しても何も問題はありませんでした。その様子をみていたお母さんたちが「お気の毒ね」と話していたのを耳にした孫が母親に質問。「おきのどくって、どんな毒?」。シンデレラではあるまいし…。脳に異常はなかったから、笑える話ですがね。主イエスは単に気の毒だから、この事をされたのではなく、可哀相だからであり、その四千人以上の群衆とはいえ、ひとりひとりが可愛いと深く思われていたからです。単に世間をびっくりさせようとした奇跡ではなく、個々人をこよなく愛し、個々人を満服、満足させたかったからです。結果が四千人以上だったというわけです。そういう風に、あなたも私もかけがいのない可愛い存在なのに、罪と死と滅びに向かっているのです。「かわいそうに」と思われ、命をかけて、そこから、救い出しますと十字架にかけられ、救いの満足に至るようにと導かれたのです。
◇イエスの「かわいそうに」が人を救う…ご自分を見せて
さて、この「かわいそう」の言語“スプラグクニゾマイ”は他の個所では「深い同情をよせる」と訳されています。上から目線のような可哀相ではなく、同情があるのです。情が同じ、同じ苦しい体験や思いがあって、心が響くのです。共感です。共鳴です。
私、四国の教会におりました時に、明治生まれの女性の牧師が名誉牧師でした。いくつも教会を開拓され、たいへん元気な先生でした。もう少し若かった時、北条と松山の間にある急坂(三田でいうならつつじが丘に上っていく坂)を元気な若い牧師と自転車で競争しました。若い牧師もさずがに疲れて、足をついてしまいます。しかし、その老牧師、「サムソンの力、サムソンの力」と言いながら、一度も足をつかずに上り切ってしまったのです。その元気牧師、病める人がいるから祈ってくださいと求めてくると、その人のために徹夜してお祈りされました。聖書のみ言葉を約束としていただくと、それを頼りに一晩中声を出して、膝を叩いて祈るのです。翌朝になると、膝が痛いという程でした。それで奇跡的に癒されるがことが多くありました。
個性の強い先生でしたから、私にはたいへん苦手な方でした。しかし、なぜ、こんなに祈られるのだろうか、後になって思わされました。素朴に「かわいそう」と思われたからに違いないと…。ご自分も辛いところを通られたからです。結婚されて、相手の方が結核で亡くなり、自分も結核になり、治らないと宣告されていました。そのような様子を知ったある方が、家に来ないか、引き受けましょうというので、行きました。その方、クリスチャンでした。個人伝道をされまして、彼女は神に立ち返り、イエス・キリストを救い主と信じました。そうしたら、内側から、今まで味わったことのない喜びにあふれました。
そのあと導かれて、この病が癒されよう祈ると、奇跡が起こり、すっかり結核は治ってしまいました。その後、伝道者になられたのです。不治の病と宣告され、苦悩し、絶望し、孤独の中にいた自分が隣人に見いだされ、イエス・キリストに導かれて救われた。だからこそ「かわいそうに」思って、救いと癒しを祈られたのだ、素朴で確かなものがあったのだと思います。
それ以上に、イエス・キリストは私たちのあらゆる病(肉体的にも精神的にも霊的にも)をご自分の身に負われました。存在の底の底にある私たちの神への罪を身に負い、神にたたかれ、神に見捨てられました。私たちを可愛いと思われ絶望の淵まで行かれました。十字架です。それは私たちを深く知り、同情し、共鳴し、そこから、救い上げ、癒すためでした。ですから、復活されたのです。
冒頭の聖書:「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神」の慰めるは「傍らから呼ぶ」(パラカレオー)です。病める苦しい状況にある者の傍らに主イエスはおられるのです。魂の苦悩を真に100パーセント共感しておられるのです。傍らということは逆の共感もあるのです。慰めの神のみ思いに聖霊によって共感させられるのです。神様、感謝します。神様、あなたを愛しますという時に起こるのです。