オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

好き嫌いを超えて

2016-06-26 19:17:00 | 礼拝説教
2016年6月26日(日)伝道礼拝(ルカ福音書10:30~37)岡田邦夫

「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」「その人にあわれみをかけてやった人です。」「あなたも行って同じようにしなさい。」ルカ福音書10:36-37抜粋」

 先々週、黒豆の種を植えましたが、長雨のせいで発芽率が悪く、しかも、やっと芽が出たのを人が見ていない間に鳩が来て、かなり食べて行ってしまいました。私、ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽの歌は嫌いになりました。「豆がほしいか、そらやるぞ。みんなでいっしょに食べに来い」ですからね。
今日のテーマは渡辺和子師の著書の中の「好き嫌いを克服する」から拝借しました。修道士であっても、彼女自身、それが身近なこととなると何か難しいようなことを書いておられます。しかし、そこに誠実さを感じます。
 人が生きていく上で、聖書が示す大切な根本精神は第一に「神を愛せよ」、第二に「隣人を愛せよ」です(ルカ10:27)。その隣人とはだれのことかが問題です(ある律法の専門家の問、ルカ10:29)。好きな人なら愛せても、嫌いな人でも愛さなければならないのか?そこが問題です。

◇まあ、そのほうがいい
 このような話が適切かどうかわかりませんが、生き物の世界で、オスとメスが結ばれるのに、行き当たりばったりではなく、多くはメスがオスを気に入ることが決め手のようです。広い意味で好き嫌いは生きていくための必要なことのようです。箴言によれば「男の女にあう道」は自然界の不思議な現象の一つだと言っています(30:19)。好きとか好きでないとか、それは生命の神秘に関わることなのかも知れません。
 ところが、人との関わりで、そんなに好き嫌いは言っていられないし、無理して人に合わせるのも疲れるし、結局、程よい距離感をもって付き合うのが生きる知恵でしょうかね。結婚披露宴の祝辞で使われている、吉野弘の「祝婚歌」はヒントになりそうです。
 二人が睦まじくいるためには/愚かでいるほうがいい/立派過ぎないほうがいい/立派過ぎることは/長持ちしないことだと/気づいているほうがいい/完璧をめざさないほうがいい/完璧なんて不自然なことだと/うそぶいているほうがいい/二人のうち どちらかが/ふざけているほうがいい/ずっこけているほうがいい/互いに非難することがあっても/非難できる資格が自分にあったかどうか/あとで疑わしくなるほうがいい/正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい/立派でありたいとか/正しくありたいとかいう/無理な緊張には色目を使わず/ゆったりゆたかに/光を浴びているほうがいい/健康で風に吹かれながら/生きていることのなつかしさに/ふと胸が熱くなる/そんな日があってもいい/そしてなぜ 胸が熱くなるのか/黙っていてもふたりには/わかるのであってほしい。
 伝道者の書の“過ぎてはならない” でしょうか(7:16-17)。「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか」。

◇おお、そのほうがいい
 ところが、それが身勝手になると、問題が生じてきます。今日のイエスの話されたたとえ話に出てくる、ある人はユダヤ人、その人を助けたのがサマリヤ人です。元は同じイスラエル人で、国が南北に分裂し、南の方の子孫ユダヤ人は民族の純潔を保ってきたと言います。北の方の子孫サマリヤ人は異邦人との雑婚などあって、汚れた人たちだと蔑んで、嫌っていたのです。両者、隣人となる人たちでした。
 イエスのたとえはこうでしたね。強盗に襲われ、身ぐるみ奪われたユダヤ人を祭司も、レビ人も彼を見たのに反対側を通り過ぎて行ってしまった。しかし、犬猿の仲でしたが、サマリヤ人はかわいそうに思い、傷の手当てをし、家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱しました。次の日、また宿屋に来て、費用はみな払うと言いました。
 ここで、イエスが質問します。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(10:36)。「隣人とはだれか」という自分を中心にした定義ではなく、「だれが隣人になったか」という相手のことを考え、状況に応じた行動を求められたのです。好き嫌いを超えて、律法的な「ねばならない」を超えて、素直に「かわいそうに思い」行動に出ることを言っています。隣人に「なる」ことが愛なのです。
 ずいぶん前のことです。私が遣わされていた教会の早天祈祷会にある朝、教会員の方が一人の男性が入口近くにいた男性を連れてきました。かなり、酔っていましたが早天後、話を聞くと100円貸してくれという。身の上話を始めた。実は自分は酒に弱い。いったん飲みだしたら、一ヶ月の給料を一週間で使ってしまい、家に帰らず、どこでどう過ごしたか、気が付いた時には路上で寝転んでいるという始末。妻や子供に愛想をつかされ、今は独り身。飲みさえしなければ仕事はよくできるのだが、これまで、数々の失敗を重ねてきた。ある社長が良い人でこんな自分を承知で雇ってくれて、ずっと飲むこともなく、まじめに働いてきた。自分でもよくやったと思う。もう大丈夫と思い、自分にご褒美と一杯だけ口にしたのがいけなかった。もらった給料を使い果たし、今、教会の近くの自動販売機の前に来た。あの善意の塊の社長に合わす顔がない。謝りたいが、勇気がない。缶ビールをひっかけた勢いで行こう。ところが一円もない。だから、牧師さん、100円貸してくれと言う。私は貸せないと言いはる。両者、ゆずらない。身の上話を延々と続けたり、子供のころ日曜学校に行ったことがあると「山路超えて」を大声で歌ったりして、2時間がたった。100円は貸さないが、水だけは何杯でも出した。結局このまま帰って、社長に謝ることを決心した。私はアルコール依存症から立ち直って、牧師をされている方がいるから、訪ねるようにとだけ伝えた。
 数日後、きちっとした身なりの立派な紳士が玄関に立っていた。誰だかわからなかった。あの100円貸してくれの人だった。社長は許してくれたという。再度、例の牧師を訪ねるようにと住所を伝えた。彼はその牧師を訪ね、回心しクリスチャンになり、酒から解放され、アルコールの臭いがする温泉旅館のボイラーマンとして、飲まずに働いていると、後にその牧師から聞きました。
 私はこの人の隣人になったのはたった2時間。しかし、長いこと親身に世話をされた社長こそ、隣人になった方だ。魂に届く関わりをされた牧師さんこそ、良きサマリヤ人だったと私は思います。さらに、真のサマリヤ人は依存症の病から解放してくださったイエス・キリストだったのではないかと思います。

◇断然、そのほうがいい
 このたとえ話の真の良きサマリヤ人はイエス・キリストご自身だと、神学者は言います。人は罪に罪を重ね、不信仰に不信仰を重ね、神を嫌い、神に嫌われ、神とは敵対関係にありました。そして、様々なことで魂は傷つき、倒れ、半死半生の状態。滅びに向かっている状況でした。そこに近づかれたのがイエス・キリストです。かわいそうに思われ、その傷口を聖霊の油とイエスの血できよめ、いやし、救いのロバに乗せ、御国の宿に入れ、十字架の命の代価を十二分に払われたのです。イエス・キリストは私の真の良きサマリヤ人なのです。私たちは良きサマリヤ人・イエス・キリストを重々知らなければなりません。愛を感じなければなりません。それが解ればわかるほど嬉しくなります。
 愛は強要されるものではありません。隣人となる、良きサマリヤ人となる機会が与えられているのです。神の愛に押し出されて、良き隣人となりましょうか、キリストに倣って良きサマリヤ人になりましょうか。愛は自由です。自発性に意味があります。私たちは傷ついている人のオリーブ油となりましょうか、包帯となりましょうか。倒れている人の支える腕となりましょうか、ろばとなりましょうか。困っている人のデナリとなりましょうか、宿となりましょうか。隣人を愛する機会を生かしたいものです。