オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

主の前に踊れ

2010-08-01 00:00:00 | 礼拝説教
2010年8月1日 主日礼拝(2サムエル記5:1~6:23)岡田邦夫


 「踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。」詩篇149:3

◇主の前に生きる…信念
 ダビデの話しが続きますが、彼の生涯を通して、私たち信仰者の生き方を教えてくれます。固い信念を貫きながら、現実には柔軟な対応をしていることです。羊を守るために獣を撃ったことを応用して、ペリシテの巨人ゴリヤテを石投げ器で倒した話です。そこにはイスラエルの神を信じる固い信仰と、見た目で判断しない柔軟さが、勝利をもたらしました。その後、次々に、戦勝の結果を表していったため、サウル王に妬まれ、逃亡生活が始まります。ダビデはガトに逃げるのですが、アキシュ王を恐れ、そこで生き延びるために「人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした」ほどでした(1サムエル21:13新共同訳)。その後、ほら穴に隠れての生活が続きます。それでも、主に伺いをたてながら生きていきます(23:4)。
 そんな辛い逃亡の日々で、追ってきたサウル王を二度、撃つことが出来るチャンスがありました。しかし、部下にこう言って、信念を貫くのです。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」と(1サムエル24:6、26:9)。「主の前に絶対にできないことだ」と判断します。そう言っても、サウルにいつかは殺されるのではと恐れ、600人の部下と共にペリシテ人の地に逃れ、ガテの王アキシュに取り入り、イスラエルの敵のふりをして、時を過ごします(1サムエル27章)。この落ちぶれた生活が続きます。いつまで忍耐しなければならないのかと嘆いたかも知れません。
 しかし、この逃亡期間というのは救済のための準備期間なのです。モーセはエジプトからミデアンの地に逃れ、その後、イスラエルを出エジプトさせました。イエス・キリストはベツレヘムからエジプトに逃れ、その後、十字架にかかり、復活され、人類の救いのみ業を成し遂げられました。また、パウロはダマスコからアラビアに逃れ、そこで、福音の奥義を啓示されました。その意味で、逃れの生活が決して、落ちぶれていたわけではなく、その後のために、主が備えをしていたに違いありません。そして、1年4ヶ月後、転機が訪れるのでした。

◇主を前にして生きる…歓喜
 ペリシテ軍がイスラエル軍に戦いをいどみます。その時、裏切るかも知れないということで、ダビデはペリシテ軍として参戦は出来ませんでした。しかし、この戦いでサウル王とその息子たちは無残にも戦死してしまいまい、その時、ダビデは主を前にして「哀歌」を作ります。そして、ダビデは主に伺います。「ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか」。すると主は彼に、「上って行け。」と仰せられました(2サムエル2:1)。ダビデの一貫した生き方は「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」なのです(詩篇16:8)。いつでも、主を目の前において、生きたのです。巨人を倒した時も、荒野や敵地での逃亡生活の時も主の前に生きました。人間的にはサウル王を殺せたはずの時も、主を目の前において信仰の判断をしました。今、逃げ隠れせずに生きられるチャンスが来ましたが、主を前において、お伺いを立てました。
 ユダ族の人々がやってきて、ダビデをユダの王とし、7年半、ユダを治めます。その後、全イスラエルの長老たちが油を注いで、ダビデをイスラエルの王にします(2サムエル5:3)。ダビデはこの神の時の来るのを待ったのです。さらに、エルサレム、すなわち、難攻不落と言われたシオンの要害を攻め取り、政治の中心地とし、さらに、宗教の中心地にしようとしました。
 そこで、約11キロ離れたアビナダブの家に70年余り安置されていた「神の箱」をイスラエルの精鋭3万を集め、新しい牛車に乗せ、エルサレムに移すことにしました。「ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った。」のです(2サムエル6:5)。実に盛大です。ところが、事件が起こります。牛がひっくり返しそうになったので、ウザが神の箱を手で押さえたところ、この不敬の罪に神の怒りがのぞみ、彼はその場で死んでしまったのです。ダビデは主を恐れます。「主の箱を、私のところにお迎えすることはできない」(6:9)。オベデ・エドムの家に3ヶ月とどまってから、「ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。」のです。

 その様子はいきいきと描写されています。「主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。主の箱はダビデの町にはいった。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。こうして彼らは、主の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真中の場所に安置した。」(6:13-17)。全焼のいけにえと和解のいけにえをささげられ、万軍の主の御名によって民を祝福し、群集全部にパンと菓子がくばられました。
 しかし、それを見ていたサウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て、皮肉を言います。…イスラエルの王はきょう、ほんとうに威厳がございましたわね。ごろつきのように、家来のはしための目の前で恥ずかしげもなく裸におなりになって…。そこで、ダビデはミカルに答えます。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。あなたの目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ」(6:21-22)。
 神の箱が運び込まれたことは、ダビデの人生にとって、最高の喜びだったに違いありません。これまでの人生を振り返って、万感の思い、胸に迫っていたことでしょう。すべては神の人サムエルが家に訪ねて来たことから、始まったのだ。羊の番をしていたら、使いの者が来て、家に行ってみると、サムエルは主が「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ」と告げられたと言うではないか。次のイスラエル王として任職式がここで行われ、主の霊が下ったのを覚えた。それから、この主の召命が現実になるには波乱の人生を送らなければならなかった。苦労も多かった。下積みも長かった。どん底まで落ちたこともあった。しかし、神の選びと召しとは変えられない。今、それは実現し、イスラエル王となり、最も大切な、契約の箱を都エルサレムに運ぶことが出来たのだ。何という光栄なことだろう。
 あの時、サムエルは言っていた。「人はうわべを見るが、主は心を見る」。主の臨在のしるしである契約の箱が都に入ってくるではないか。主に選ばれた者として、喜びは心からあふれてくる。自然に踊ってしまう。うわべの王の威厳などいらない。見せかけの王服は脱いでしまいたい。心から喜んだのだ。この心を主はご覧にならないはずはない。そして、民と共に喜び合いたいのだ。…ミカル、あなたの目に卑しく見えても、私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前で、心から喜び踊るのだ。…
 大事なのは心なのです。復活されたイエス・キリストにお会いした「弟子たちは、主を見て喜んだ。」のです(ヨハネ20:20)。私たちも復活の主を心に見て、心を躍らそうではありませんか。主がどれ程のことをしてくださったかを思う時に、心が喜び踊らないでおられましょうか。