オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

砕かれたタビデ

2010-08-08 00:00:00 | 礼拝説教
2010年8月8日 主日礼拝(2サムエル記11:1~12:25)岡田邦夫


「神へのいけにえは、砕かれた霊。、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17

 東京大空襲を逃れ、田舎に疎開していた時のことです。母親が子供の私をおぶって、橋を渡っていたら、何かにつまづいて倒れて、その拍子に母のヘアピンが、私の鼻を縦に切ってしまいました。戦争中の物のない時代なので、母が新聞紙を小さく切って、つばをつけ、小さな鼻にはっただけの治療?でした。そのためか、傷は治ったのですが、傷跡は60年以上立っても消えていません。人生にも傷つくことがあり、癒されることもありますが、傷跡が残ることがあります。

◇ダビデの不始末
 ダビデという人は、神が選ばれた人で、御心にかなって、主が彼を神の民の王に導かれたのですが、人となりとしては、苦労と忍耐を積み重ねていき、ついにイスラエルの王にまで登り詰めた人だと言えます。そして、戦場には将軍と家来に行かせ、自分がエルサレムに留まっていても良いようなゆとりが出てきました。そういう時に心のすきが生まれるものです。
 「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。…ダビデは使いの者をやって、その女(ウリヤの妻バテ・シェバ)を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。それから女は自分の家へ帰った。女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。『私はみごもりました。』」と、聖書は隠さず記しています(11:2-5)。
 ダビデのこの行為というものは魔が差したとか、出来心だったではすまされないことです。男には浮気心というものがあるものだ、諸外国の王にはよくあることで、権力のゆえに見逃されているではないか、人間、大目に見てもいいのではないかととも言えないことなのです。これは明らかに姦淫の罪です。ダビデはこれを隠そうと工作をします。彼女の夫、ウリヤを呼び寄せ、戦場の兵士の安否を問い、贈り物をもたせ、家に帰るように言います。
 しかし、彼は家には帰らず、他の兵士たちと一緒になって、そこで寝たのでした。彼はこう言うのです。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません」(11:11)。その忠実ぶり、忠誠は見上げたものです。ダビデは実に良い家来を持ったものです。それでも、次の手をうちます。ヨアブ将軍に手紙を書き、ウリヤに持たせます。その手紙の内容はこうです。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ」(11:15)。もし、私が将軍だとしたら、この王の命令はウリヤが気に入らないので抹殺しようとしているのか、それとも、戦略のミスだとして、自分を将軍の地位を失脚させようとしているのか、どちらなのか、疑ったことでしょう。使者を送り、最前線でウリヤが死んだことを王に報告すると、王は心配するなと将軍を力づけるよう伝言したのです。
 これで、ダビデは過ちをおおい隠せたわけです。夫ウリヤが死んで、いたく悲しんだバテ・シェバを、喪が明けた時、ダビデは妻とし、男の子が生まれてきました。一国の王だから、それも赦されて良いのでしょうか。聖書はこう記しています。「しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」(11:27)。

◇主の始末
 王宮付きの預言者ナタンが主に遣わされ、王に告げます。たとえ話をもって、効果的に話します。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました」(12: 24 )。
 王は憤り、そんな男は死刑だと言いますが、すかさず、ナタンは恐れず、ダビデの罪を指摘します。「あなたがその男です」。主の言葉を告げます。…私はあなたに油を注ぎ、イスラエルの王とし、サウルの手から救い、彼の家と妻たちを与え、イスラエルの家も与えた。求めれば、もっと多くのものを与えたであろう。「それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか」(12:9)。ウリヤをあなたの策略により戦場で死なせ、その妻を自分の妻にした。だから、剣はあなたの家から離れず、あなたの妻たちを白昼、あなたの友に与える結果になる。「あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう」(12:12)…。
 事実、神は侮られるような方ではありません。ダビデは隠れてした自分の罪は明るみに出され、その刈り取り、神の裁きを現実に受けなければなりませんでした。しかし、ダビデは一言のいいわけもせず、きっぱりと告白しました。「私は主に対して罪を犯した」(12:13)。
 ナタンは赦しのメッセージをダビデに伝えます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。同時に裁きも伝えます。「しかし、このようなことをして主を甚(はなは)だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」(12:13-14新共同訳)。裁きは現実に受けなければなりませんでした。生まれた子は病気で死んでしまいます。そして、次にバテ・シュバとの間に生まれたのがソロモンですが、王家に内紛が続いた後、彼が王位を継ぐことになっていきます。人間の罪と神の裁きの歴史の中にも、神の救いの歴史は展開されていくという主の導きを見るのです。
 預言者に「あなたがその男です。」と指摘されて、ダビデが「私は主に対して罪を犯した。」と告白した信仰こそ、ダビデの真骨頂なのです。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」という主の赦しのきわみが、ここにあります。世においては傷跡は残りますが傷はいえるというものです。永遠においては傷も傷跡も消えるのです。ダビデの詩篇にこううたわれています。「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩篇103:10-12)。 また、この時の霊的な状況を詩篇32篇においてダビデは告白しています。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」で始まります。地位や名誉や財産や子孫が与えられる幸せよりも、罪跡が取り除かれる方が断然、幸せなのだというのです。彼は常に主を目の前におき、主の前に生きました。いい時もわるい時もです。姦淫と殺人と偽証の罪を犯したのですが、主の前にありました。ですから、平気ではおられません。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです」(32:3-4)。そして、勇気を出して、ついに「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」のです(32:5)

◇永遠の始末
 これこそが、ダビデ王朝を築いたことにまして、後世に残す最大遺物でした。負の遺産も正の遺産も残したのです。イエス・キリストの十字架において、罪の赦しの救いは明確に実現しました。自分史を書き残すことが静かなブームですが、キリスト者の自分史のテーマは…私は主の前に罪を犯してきました。しかし、その罪責に苦しみ、主の前に告白しました。主によって、すべての罪を赦され、私は幸いな人生でした。やがて、主のみもとに迎えてくださる希望をもっています。…でしょう。本にするかどうかは別にして、私たちは自分の業績を残すことにまして、イエス・キリストの十字架による救いの業績を残すことが重要なのです。ですから、私たちは生きる限り、主の前に砕けた魂でありたいものです。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)。
 「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に(無限に)大きい。」のです。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから(無限大に)遠く離される。」のです(詩篇103:10-12)。神はイエス・キリストにおいて、私たちの犯した罪のすべてを赦し、無限のかなたに追いやって、私たちの不始末を永遠に始末してくださったし、主の再臨の時に永遠に始末してくださるのです。あなたも、砕かれて、「私は主に対して罪を犯し」ましたと言える、主の前の好人物になりましょう(12:13)。