2018年6月17日(日)主日礼拝(イザヤ書40:1~11)岡田邦夫
「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。」(イザヤ書40:1)
先週の火曜日の夜、家から自転車で15分、小さな丘を越えたところにある武庫川の上流へ、ホタルを見に行きました。その日は空が晴れて、雲一つなく、満天の星。ちょうど真上に北極星が輝く。それに負けじとホタルがひかり舞う。まるで星がまい降り、ホタルになったようにさえ思える。命の輝きをしばらく観賞しているうちに「今年も生きていこう」という気分になる。そうして、気持ちが駆り立てられて、その週、8畝分の黒豆の種を苗床に蒔いた。「蒔く」は草冠に時と書くように、天候との兼ね合いで蒔き時があり、失敗もある。神経を使う。しかし、命の成長が見られるので楽しみです。
そんな風ですから、私、東京下町の出身ですが、もう、ふるさとは三田という心情です。教団の年会で東京に行っても、帰りに福知山線に乗ると「ああ、帰ってきた」という安ど感に包まれます。住めば都、いえ、住めばふるさとということでしょうか。今日はユダの民がふるさとに帰るという預言の話です。
◇帰還…なぐさめ
シベリヤに抑留された日本人が過酷な環境の中、どれほど辛かったか、帰国された方たちはあまりにも辛い経験で、何があったかを話そうとはしませんでした。酷寒の地で祖国、日本の桜を見たいとどれほど夢見ていたでしょうか。イザヤはユダの民の不信仰のゆえにバビロン捕囚があること、祖国を失うことを預言しなければなりませんでした。しかし、後に祖国に帰れる望みもはっきりと預言しています。その意味と喜びを告げています。
「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」(40:1-2)。真に慰められるのは優しさと意味付けです。反逆の民に対して、神は厳しくも優しい。祖国へ帰すというのです。その咎が償われたから、それ以上、償わなくていい。堂々と帰っていいのだというのです。そして、「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」という幸いの預言です(40:11)。
イザヤはユダの民が大帝国バビロンから、神が祖国に帰してくれるという救いの預言から、その先のこと、そのまた先のことまで預言していきます。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)。新約時代の幕開けを預言します。「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」(40:3)。バプテスマのヨハネをさします。マルコの福音書はこの預言が成就したことから書き始めています。
◇帰依…はげまし
なお、先行き不安な者たちにメッセージを告げます。主は天も地も霊も知も正も創造された。神のとっては国々は手桶のしずく、はかりのうえのごみ、偶像などあってないようなものです。先ほどの夜空の星、高い天井の明かりのように見えます。北斗七星もひしゃくに見えます。しかし、地球からの距離はそれぞれ約50光年~170光年と気の遠くなるような遠さであり、その光を小さな目で見ているのです。だから、創造の神の偉大さを「見よ!」と励まします。
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」(40:26)。
人は困難にあうとすぐ神から見捨てられたと思ったりします(40:28)。バビロンに捕囚された人たちはその悲惨な生活の中で、そう思うことが予想されます。それに対して「聞け!」と励まします。
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(40:28-31)。
イザヤの預言の700年後、救い主が現れます。イエス・キリストが誕生された時、敬虔で「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」シメオンという人が「私の目があなたのみ救いを見た(万民の)」と聖霊によって証言しました。前述の「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」(40:3)。バプテスマのヨハネが登場し、道備えをします(イザヤ40:3→マルコ福音書1:2-3)。そのヨハネは救い主イエスが公生涯に入られたのを見て言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。罪と死と滅びに捕らえられている人類を御子の十字架の贖いをもって解放し、神のもとに帰すために来られました。
北斗七星を造られ、ホタルを造られた方はこの私を滅びから救い出すために、十字架で小羊のいけにえになられたのだ。目を上げて高きを見よと言われる方が、世(私)の罪を除く神の小羊を見よと言われるのです。ここに慰めがあり、励ましがあり、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるのです。
「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。」(イザヤ書40:1)
先週の火曜日の夜、家から自転車で15分、小さな丘を越えたところにある武庫川の上流へ、ホタルを見に行きました。その日は空が晴れて、雲一つなく、満天の星。ちょうど真上に北極星が輝く。それに負けじとホタルがひかり舞う。まるで星がまい降り、ホタルになったようにさえ思える。命の輝きをしばらく観賞しているうちに「今年も生きていこう」という気分になる。そうして、気持ちが駆り立てられて、その週、8畝分の黒豆の種を苗床に蒔いた。「蒔く」は草冠に時と書くように、天候との兼ね合いで蒔き時があり、失敗もある。神経を使う。しかし、命の成長が見られるので楽しみです。
そんな風ですから、私、東京下町の出身ですが、もう、ふるさとは三田という心情です。教団の年会で東京に行っても、帰りに福知山線に乗ると「ああ、帰ってきた」という安ど感に包まれます。住めば都、いえ、住めばふるさとということでしょうか。今日はユダの民がふるさとに帰るという預言の話です。
◇帰還…なぐさめ
シベリヤに抑留された日本人が過酷な環境の中、どれほど辛かったか、帰国された方たちはあまりにも辛い経験で、何があったかを話そうとはしませんでした。酷寒の地で祖国、日本の桜を見たいとどれほど夢見ていたでしょうか。イザヤはユダの民の不信仰のゆえにバビロン捕囚があること、祖国を失うことを預言しなければなりませんでした。しかし、後に祖国に帰れる望みもはっきりと預言しています。その意味と喜びを告げています。
「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」(40:1-2)。真に慰められるのは優しさと意味付けです。反逆の民に対して、神は厳しくも優しい。祖国へ帰すというのです。その咎が償われたから、それ以上、償わなくていい。堂々と帰っていいのだというのです。そして、「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」という幸いの預言です(40:11)。
イザヤはユダの民が大帝国バビロンから、神が祖国に帰してくれるという救いの預言から、その先のこと、そのまた先のことまで預言していきます。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)。新約時代の幕開けを預言します。「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」(40:3)。バプテスマのヨハネをさします。マルコの福音書はこの預言が成就したことから書き始めています。
◇帰依…はげまし
なお、先行き不安な者たちにメッセージを告げます。主は天も地も霊も知も正も創造された。神のとっては国々は手桶のしずく、はかりのうえのごみ、偶像などあってないようなものです。先ほどの夜空の星、高い天井の明かりのように見えます。北斗七星もひしゃくに見えます。しかし、地球からの距離はそれぞれ約50光年~170光年と気の遠くなるような遠さであり、その光を小さな目で見ているのです。だから、創造の神の偉大さを「見よ!」と励まします。
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」(40:26)。
人は困難にあうとすぐ神から見捨てられたと思ったりします(40:28)。バビロンに捕囚された人たちはその悲惨な生活の中で、そう思うことが予想されます。それに対して「聞け!」と励まします。
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(40:28-31)。
イザヤの預言の700年後、救い主が現れます。イエス・キリストが誕生された時、敬虔で「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」シメオンという人が「私の目があなたのみ救いを見た(万民の)」と聖霊によって証言しました。前述の「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」(40:3)。バプテスマのヨハネが登場し、道備えをします(イザヤ40:3→マルコ福音書1:2-3)。そのヨハネは救い主イエスが公生涯に入られたのを見て言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。罪と死と滅びに捕らえられている人類を御子の十字架の贖いをもって解放し、神のもとに帰すために来られました。
北斗七星を造られ、ホタルを造られた方はこの私を滅びから救い出すために、十字架で小羊のいけにえになられたのだ。目を上げて高きを見よと言われる方が、世(私)の罪を除く神の小羊を見よと言われるのです。ここに慰めがあり、励ましがあり、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるのです。