2009年11月22日 伝道礼拝 岡田邦夫
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」ローマ人への手紙8:1
戦火をくぐり抜けて…
私は終戦の2年前に、東京は日暮里(につぽり)という所で生まれた。アメリカからB29が頻繁に来るようになってきて、焼夷弾(しよういだん)を雨のように落とす。爆発はしないが、日本の木造家屋の密集地を大火災にしてしまう、アメリカ軍が考えだした、省エネ弾。アニメ映画「火垂るの墓」には実にリアルに描写されているとのことである。落下の時の「ヒュー」という音は戦火のもとにある人たちにとって、どれほど恐怖だったことか。けたたましいサイレンが鳴る。「警戒警報発令!」の声に慌てて、防空壕に逃げ込むのだが、幼い私にはまだわけがわからない。防空ずきんをかぶせられれば、「けいかいけ、けいかいけ」と回らぬ舌で言っては、部屋の中を喜んで走り回る。無理矢理、母の背に縛られ、防空壕に走っていく。難を逃れたものの、東京にいては命が危ないと判断。家族は群馬県郡山の農家に疎開。しかし、兄は特攻隊に志願し訓練は受けたが、ゼロ戦がなくなっていた。終戦を迎え、兄も家族も全員助かった。といっても、疎開から帰れば東京は焦土と化していた。我が家は消失、他人がバラックを建て住んでいて、住む場所がない。そういう中から、多くの日本人がそうであったように、私たちも何とか生き延びていった。
この話は母から聞かされた話で、私自身、何一つ覚えてはいない。しかし、60年以上たっても、これだけ言えるのは、脳が幼い頃の情報を消去したものの、潜在意識という所に、戦時下の緊迫した空気や、言いしれぬ恐怖というものが残存しているからではないかと、私は思う。
ガードをくぐり抜けるとそこは…
日暮里に帰ったものの、生きていければそれでいい。日の入ってこない薄暗い長屋に一家は住んだ。下町である。私は小学生になり、山の手にある第一日暮里小学校に、六年間かよった。山手線、東北線、常磐線などのいくつもの線路の下の長いガードをくぐりぬけ、長い階段を上って高台にある学校に行くわけである。逆に帰りは、長い階段を走って降りると、勢いついて、薄気味悪いガード下を一気に抜けられるというもの。ところが、ガード下を出てすぐ、踏切があり、線路が一本通っている。それも遮断機も何もないので、危険きわまりない。たまに貨物列車が通るとはいえ、私たちは注意して渡っていた。
ところが、ある日、友だちといつものように、ガード下を走っていたら、捨て犬がいた。その小犬があまりにも可愛いので、連れ帰りたくなったが、皆、家では飼えない。助けを求め、クンクンついてくる。無情だが、振り切って走った。列車の音が聞こえたが、踏切を渡った。蒸気機関車が大きな音を立てて、踏切を過ぎていく。私たちは振り返った。何と、列車というものを知らない小犬が、走る車輪と車輪の間をくぐろうとしている。私たちは叫んだ。「来るな!」「シッシッ!」。その声も車輪の音に消される。小犬は私たちの所に来たい一心。私たちの目の前で、大きな車輪に命は砕かれてしまい、列車は何食わぬ顔で行ってしまった。私たちは呆然と立ち尽くした。何も言わず別れそれぞれ家に帰った。衝撃が大きく、私はどうしてもこのことを話せなかった。無言のまま、その夜を過ごした。
しかし、その後、上級生の女の子が本を読みながら、そのガード下を抜けようとした。本に夢中で、列車に気付かず、はねられ死んだと朝礼で知らされた。知らない子だったが、小犬のこととダブって、子供ながらに死は残酷にやってくるものだと感じた。その頃、親戚が若くして結核で亡くなり、初めて葬式に行った。黒幕がはられ、異質な感じの祭壇があった。死に顔も見せてくれた。子供には何か表現出来ない、死の状況というものが不気味に思え、恐ろしかった。
最後の時をくぐれるのか…
しかし、なぜかわからないが、身近な死にまつわる一連のことは心の深くにしまった。義務教育を終え、家の事情で早く就職する必要があったので、都立化学工業高校に入学した。時は高度成長期、高卒でも、引っ張りだこだった。3年の夏休みには、信越化学中央研究所に内定していた。そこで、卒業までの空白期間が生じたので、私は人生を深く考えるようになった。そんな矢先、都電に乗ろうとした時に、キリスト教の音楽と講演のブルーのチラシを受け取った。どんなものだろうと、友人の渡辺君と二人で共立講堂に行ってみた。その後、教会を紹介されたので、とにかく行ったのだが、私には一から十まで判らなかった。残念ながら行くのをやめた。
しかし、判らないはずなのに、「最後の審判の時、自分は神の前に立てるのだろうか」という不安が生じていた。勤め始めた職場も楽しかった。希望もあった。研究所の山岳クラブに入り、山登りは楽しかった。ベンハーなどの映画に感動した。人を好きになっても片思い、語学や絵画やスポーツに挑戦しても長続きはしない。それなりの青春をしていた。しかし、楽しければ楽しいほど、その後が虚しくなり、「最後の審判の時、自分は神の前に立てるのだろうか」という不安がよぎる。うまくいかない時は、なおそうだ。それは無意識の中にある幼児の時の空襲経験が底にあるからなのか。それとも、しまってあった子供の頃の死の恐れの経験が顔を出してきたのだろうか。それとも、小学校の授業で、上野の美術館や博物館によく、歩いて見学に行ったが、子供には気味の悪い谷中の墓地を通って行ったということや、国立西洋美術館にあるロダン作の巨大な「地獄の門」が心に焼き付いていたせいだろうか。
一緒に共立講堂に行った友人はすでに洗礼を受けていたし、はからずも、同じ社に入社していた。2年が過ぎた頃、社内電話で特別伝道集会に誘われた。その日に柴又キリスト教会に行った。平松実馬という型破りな伝道者が説教され、私は不思議と心を開いていた。その場で信じる決心をして、祈り、新生した。何か、重荷が軽くなり、神の子にされたという喜びがあり、言いしれぬ平安が訪れた。しかし、その後、気分はエレベーターのようであった。ハレルヤ、主よ、感謝しますと昇ったかと思うと、どうして私をお見捨てになったのかと降ってしまう。そのような時に、牧師に紹介された内村鑑三の「ロマ書の研究」を読んだ。文語調で読めない漢字も多い。しかし、熱情、パトスが伝わってきて、わくわくしてしまう。いよいよ、8章まできた。1節「この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪に定められることなし」。解説というより、内村先生の説教が聞こえてくるようだ。このみ言葉が私の魂にいっぱいになって、「最後の審判の時に立てるだろうか」という不安を押し出してしまった。この時、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」のみ言葉は、私にとって天国へのパスポートとなった。魂は安定した。
※この続きは「グレイスインサンダ」をご覧ください。
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」ローマ人への手紙8:1
戦火をくぐり抜けて…
私は終戦の2年前に、東京は日暮里(につぽり)という所で生まれた。アメリカからB29が頻繁に来るようになってきて、焼夷弾(しよういだん)を雨のように落とす。爆発はしないが、日本の木造家屋の密集地を大火災にしてしまう、アメリカ軍が考えだした、省エネ弾。アニメ映画「火垂るの墓」には実にリアルに描写されているとのことである。落下の時の「ヒュー」という音は戦火のもとにある人たちにとって、どれほど恐怖だったことか。けたたましいサイレンが鳴る。「警戒警報発令!」の声に慌てて、防空壕に逃げ込むのだが、幼い私にはまだわけがわからない。防空ずきんをかぶせられれば、「けいかいけ、けいかいけ」と回らぬ舌で言っては、部屋の中を喜んで走り回る。無理矢理、母の背に縛られ、防空壕に走っていく。難を逃れたものの、東京にいては命が危ないと判断。家族は群馬県郡山の農家に疎開。しかし、兄は特攻隊に志願し訓練は受けたが、ゼロ戦がなくなっていた。終戦を迎え、兄も家族も全員助かった。といっても、疎開から帰れば東京は焦土と化していた。我が家は消失、他人がバラックを建て住んでいて、住む場所がない。そういう中から、多くの日本人がそうであったように、私たちも何とか生き延びていった。
この話は母から聞かされた話で、私自身、何一つ覚えてはいない。しかし、60年以上たっても、これだけ言えるのは、脳が幼い頃の情報を消去したものの、潜在意識という所に、戦時下の緊迫した空気や、言いしれぬ恐怖というものが残存しているからではないかと、私は思う。
ガードをくぐり抜けるとそこは…
日暮里に帰ったものの、生きていければそれでいい。日の入ってこない薄暗い長屋に一家は住んだ。下町である。私は小学生になり、山の手にある第一日暮里小学校に、六年間かよった。山手線、東北線、常磐線などのいくつもの線路の下の長いガードをくぐりぬけ、長い階段を上って高台にある学校に行くわけである。逆に帰りは、長い階段を走って降りると、勢いついて、薄気味悪いガード下を一気に抜けられるというもの。ところが、ガード下を出てすぐ、踏切があり、線路が一本通っている。それも遮断機も何もないので、危険きわまりない。たまに貨物列車が通るとはいえ、私たちは注意して渡っていた。
ところが、ある日、友だちといつものように、ガード下を走っていたら、捨て犬がいた。その小犬があまりにも可愛いので、連れ帰りたくなったが、皆、家では飼えない。助けを求め、クンクンついてくる。無情だが、振り切って走った。列車の音が聞こえたが、踏切を渡った。蒸気機関車が大きな音を立てて、踏切を過ぎていく。私たちは振り返った。何と、列車というものを知らない小犬が、走る車輪と車輪の間をくぐろうとしている。私たちは叫んだ。「来るな!」「シッシッ!」。その声も車輪の音に消される。小犬は私たちの所に来たい一心。私たちの目の前で、大きな車輪に命は砕かれてしまい、列車は何食わぬ顔で行ってしまった。私たちは呆然と立ち尽くした。何も言わず別れそれぞれ家に帰った。衝撃が大きく、私はどうしてもこのことを話せなかった。無言のまま、その夜を過ごした。
しかし、その後、上級生の女の子が本を読みながら、そのガード下を抜けようとした。本に夢中で、列車に気付かず、はねられ死んだと朝礼で知らされた。知らない子だったが、小犬のこととダブって、子供ながらに死は残酷にやってくるものだと感じた。その頃、親戚が若くして結核で亡くなり、初めて葬式に行った。黒幕がはられ、異質な感じの祭壇があった。死に顔も見せてくれた。子供には何か表現出来ない、死の状況というものが不気味に思え、恐ろしかった。
最後の時をくぐれるのか…
しかし、なぜかわからないが、身近な死にまつわる一連のことは心の深くにしまった。義務教育を終え、家の事情で早く就職する必要があったので、都立化学工業高校に入学した。時は高度成長期、高卒でも、引っ張りだこだった。3年の夏休みには、信越化学中央研究所に内定していた。そこで、卒業までの空白期間が生じたので、私は人生を深く考えるようになった。そんな矢先、都電に乗ろうとした時に、キリスト教の音楽と講演のブルーのチラシを受け取った。どんなものだろうと、友人の渡辺君と二人で共立講堂に行ってみた。その後、教会を紹介されたので、とにかく行ったのだが、私には一から十まで判らなかった。残念ながら行くのをやめた。
しかし、判らないはずなのに、「最後の審判の時、自分は神の前に立てるのだろうか」という不安が生じていた。勤め始めた職場も楽しかった。希望もあった。研究所の山岳クラブに入り、山登りは楽しかった。ベンハーなどの映画に感動した。人を好きになっても片思い、語学や絵画やスポーツに挑戦しても長続きはしない。それなりの青春をしていた。しかし、楽しければ楽しいほど、その後が虚しくなり、「最後の審判の時、自分は神の前に立てるのだろうか」という不安がよぎる。うまくいかない時は、なおそうだ。それは無意識の中にある幼児の時の空襲経験が底にあるからなのか。それとも、しまってあった子供の頃の死の恐れの経験が顔を出してきたのだろうか。それとも、小学校の授業で、上野の美術館や博物館によく、歩いて見学に行ったが、子供には気味の悪い谷中の墓地を通って行ったということや、国立西洋美術館にあるロダン作の巨大な「地獄の門」が心に焼き付いていたせいだろうか。
一緒に共立講堂に行った友人はすでに洗礼を受けていたし、はからずも、同じ社に入社していた。2年が過ぎた頃、社内電話で特別伝道集会に誘われた。その日に柴又キリスト教会に行った。平松実馬という型破りな伝道者が説教され、私は不思議と心を開いていた。その場で信じる決心をして、祈り、新生した。何か、重荷が軽くなり、神の子にされたという喜びがあり、言いしれぬ平安が訪れた。しかし、その後、気分はエレベーターのようであった。ハレルヤ、主よ、感謝しますと昇ったかと思うと、どうして私をお見捨てになったのかと降ってしまう。そのような時に、牧師に紹介された内村鑑三の「ロマ書の研究」を読んだ。文語調で読めない漢字も多い。しかし、熱情、パトスが伝わってきて、わくわくしてしまう。いよいよ、8章まできた。1節「この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪に定められることなし」。解説というより、内村先生の説教が聞こえてくるようだ。このみ言葉が私の魂にいっぱいになって、「最後の審判の時に立てるだろうか」という不安を押し出してしまった。この時、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」のみ言葉は、私にとって天国へのパスポートとなった。魂は安定した。
※この続きは「グレイスインサンダ」をご覧ください。