2009年11月1日 主日礼拝(ルカ福音書7:11~17)岡田邦夫
「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。」ルカ福音書7:13
私の孫娘が幼稚園で、遊んでいた時に、勢いよく後ろに倒れて、堅い所に頭をぶつけ、軽い脳しんとうを起こしたのですが、大したことではなかったようです。母親が迎えにくると、保育士さんや他のお母さんから、「お気の毒ねー」と言われ、娘はけげんな顔でこう聞きました。「おきのどくってどんな毒?」。毒キノコのようなものと思ったらしい…。
◇泣きなさい
今日の聖書にでてくるナインのやもめに起こったことは、ほんとうに気の毒な話です。若い時なのか、それとも、息子が青年になってからかは判りませんが、頼りにしていた夫を亡くし、婦人は悲しみに明け暮れていたことでしょう。しかし、一人息子がいて、それがどんなに慰めであり、励ましであったことでしょう。しかし、その最愛の息子が若くして、亡くなってしまい、失意のどん底にあり、自分も追って死んでしまいたい思いであったでしょう。「なんで息子が先に逝って、私が後なのよ」と嘆いても、現実はどうにもならない、葬儀が行われ、棺(かん)におさめられ、かつぎ出されていきます。
大ぜいの町の人たちが気の毒だと思って、その母親につき添っていたのです。悲しむ人につき添うこと、寄り添うことは、とても大切なことです。共に涙し、時を過ごすことです。愛する者を失った人の悲しみというのは並大抵のことではありません。しかし、悲しい気持ちを抑え込んだり、忘れようとするのではなく、むしろ、涙が涸れるまで、悲しむことを通して、心というのはそれを乗り越えていくのです。私たちはこの町の人たちのように、悲しむ人につき添う者、寄り添う者でありたいものです。
式文中の前夜式の祈りで、最後に「悲しむ者の慰め主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。」と記されています。悲しむ者に最も寄り添って、心底、慰めてくださる方は十字架の苦難を受けられたイエス・キリストです。そのイエスがこの母親を見て、お気の毒にとは言いませんでした。「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた」のです(7:13)。「かわいそうに思い」は、深い同情を寄せられ、憐れに思い、とも訳されている深い意味の言葉です。母親はたった一人の愛する者を失って、失意、失望、絶望、ブロウクン・ハート(broken heart)、心臓が破れるような状態でした。主の受難を示す詩篇62:20に、こう描写されています。「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした」。同情者もなく、慰める者もないほどのブロウクン・ハートを十字架において経験されるのです。だからこそ、主のかわいそうに思う思いは失意の母親に届き、あらゆる悲しむ者に届くのです。
※詩篇62:20はヘンデルのメサイヤの第二部、受難No. 29に出てきます。
◇泣かなくてよい
普通は悲しむ人に「泣きなさい」と言って慰めるのですが、主イエスは母親に「泣かなくてもよい。」と言われたのです。それは終末的な意味合いの言葉でした。究極的な慰めの言葉です。そして、主は奇跡を起こしました。「近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」(7:14ー15)。
眠っている者を起こすように、死人を生き返らせたのです。このことで、人々が恐れを感じ、大預言者が現われた、神が顧みてくださったと言うほど、センセーショナルなことでした。旧約聖書にも、やもめの息子が死んで、預言者エリヤが三度、その子の上に身を伏せて、祈ったところ、その子は生き返ったと記されています(2列王17章)。ですから、イエスをエリヤの再来と、人々は思ったのでしょう。しかし、主イエスはエリヤのように祈ったのではなく、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と命じたのです。
人が亡くなれば、葬儀をします。葬儀というのは、その人はすでに死んだのですが、心はなかなか受け入れがたい、しかし、ほんとうに死んだのだと、心に確認させる儀式だと思います。アカデミー外国語映画賞を受賞した滝沢洋二郎監督の映画「おくりびと」は遺体をていねいに扱う納棺師の話です。死体を忌み嫌うものとして扱うのではなく、故人の生きてきた生き様に目を向けさせていくというところに、私は感心しました。
しかし、さらに主イエス・キリストは棺に手をかけて、真正面から死んだ青年に向き合いました。魔術的な言葉で、死人よ生き返れというような言葉を言ったりしません。全人格をかけて、「青年よ」と呼びました。答えが返ってくるはずのない呼びかけです。無に呼びかける言葉です。しかも、「あなたに言う」と力を込めます。不言実行と言いますが、イエス・キリストはすべて、有言実行です。言行一致です。必ず、預言の通り、十字架において贖いをなしとげるという言行一致です。そのように「あなたに言う」には真実が貫かれています。
また、「言う」は「ある」なのです。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1:3)というように、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言うとすると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたのです。無から有を呼び起こす神の言葉で、死人を生き返らせたのです。終わりの日には語られたすべての預言の言葉が、一言も地に落ちず、すべて実現します。イザヤ25:8及び、26:19の復活の預言もしかりです。
「永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ」。
「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます」。
「かわいそう」と思われたイエス・キリストはその終末のしるしとして、青年を生き返らせ、母親を慰めたのです。一時の慰めではなく、復活の福音という永遠の慰めを与えられたのです。主イエス・キリストは悲しい存在である私たちをかわいそうと思い、十字架において、すべての悲しみを担い、慰め主となってくださいました。主イエス・キリストは死と滅びに向かう私たちをかわいそうと思い、十字架で罪を贖い、死人の中から復活し、死と滅びから解放し、永遠の命と復活の希望を与え、真の慰め主となってくださいました。私たちは、今、ここで、慰め主のもとにまいりましょう。
「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。」ルカ福音書7:13
私の孫娘が幼稚園で、遊んでいた時に、勢いよく後ろに倒れて、堅い所に頭をぶつけ、軽い脳しんとうを起こしたのですが、大したことではなかったようです。母親が迎えにくると、保育士さんや他のお母さんから、「お気の毒ねー」と言われ、娘はけげんな顔でこう聞きました。「おきのどくってどんな毒?」。毒キノコのようなものと思ったらしい…。
◇泣きなさい
今日の聖書にでてくるナインのやもめに起こったことは、ほんとうに気の毒な話です。若い時なのか、それとも、息子が青年になってからかは判りませんが、頼りにしていた夫を亡くし、婦人は悲しみに明け暮れていたことでしょう。しかし、一人息子がいて、それがどんなに慰めであり、励ましであったことでしょう。しかし、その最愛の息子が若くして、亡くなってしまい、失意のどん底にあり、自分も追って死んでしまいたい思いであったでしょう。「なんで息子が先に逝って、私が後なのよ」と嘆いても、現実はどうにもならない、葬儀が行われ、棺(かん)におさめられ、かつぎ出されていきます。
大ぜいの町の人たちが気の毒だと思って、その母親につき添っていたのです。悲しむ人につき添うこと、寄り添うことは、とても大切なことです。共に涙し、時を過ごすことです。愛する者を失った人の悲しみというのは並大抵のことではありません。しかし、悲しい気持ちを抑え込んだり、忘れようとするのではなく、むしろ、涙が涸れるまで、悲しむことを通して、心というのはそれを乗り越えていくのです。私たちはこの町の人たちのように、悲しむ人につき添う者、寄り添う者でありたいものです。
式文中の前夜式の祈りで、最後に「悲しむ者の慰め主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。」と記されています。悲しむ者に最も寄り添って、心底、慰めてくださる方は十字架の苦難を受けられたイエス・キリストです。そのイエスがこの母親を見て、お気の毒にとは言いませんでした。「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた」のです(7:13)。「かわいそうに思い」は、深い同情を寄せられ、憐れに思い、とも訳されている深い意味の言葉です。母親はたった一人の愛する者を失って、失意、失望、絶望、ブロウクン・ハート(broken heart)、心臓が破れるような状態でした。主の受難を示す詩篇62:20に、こう描写されています。「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした」。同情者もなく、慰める者もないほどのブロウクン・ハートを十字架において経験されるのです。だからこそ、主のかわいそうに思う思いは失意の母親に届き、あらゆる悲しむ者に届くのです。
※詩篇62:20はヘンデルのメサイヤの第二部、受難No. 29に出てきます。
◇泣かなくてよい
普通は悲しむ人に「泣きなさい」と言って慰めるのですが、主イエスは母親に「泣かなくてもよい。」と言われたのです。それは終末的な意味合いの言葉でした。究極的な慰めの言葉です。そして、主は奇跡を起こしました。「近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」(7:14ー15)。
眠っている者を起こすように、死人を生き返らせたのです。このことで、人々が恐れを感じ、大預言者が現われた、神が顧みてくださったと言うほど、センセーショナルなことでした。旧約聖書にも、やもめの息子が死んで、預言者エリヤが三度、その子の上に身を伏せて、祈ったところ、その子は生き返ったと記されています(2列王17章)。ですから、イエスをエリヤの再来と、人々は思ったのでしょう。しかし、主イエスはエリヤのように祈ったのではなく、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と命じたのです。
人が亡くなれば、葬儀をします。葬儀というのは、その人はすでに死んだのですが、心はなかなか受け入れがたい、しかし、ほんとうに死んだのだと、心に確認させる儀式だと思います。アカデミー外国語映画賞を受賞した滝沢洋二郎監督の映画「おくりびと」は遺体をていねいに扱う納棺師の話です。死体を忌み嫌うものとして扱うのではなく、故人の生きてきた生き様に目を向けさせていくというところに、私は感心しました。
しかし、さらに主イエス・キリストは棺に手をかけて、真正面から死んだ青年に向き合いました。魔術的な言葉で、死人よ生き返れというような言葉を言ったりしません。全人格をかけて、「青年よ」と呼びました。答えが返ってくるはずのない呼びかけです。無に呼びかける言葉です。しかも、「あなたに言う」と力を込めます。不言実行と言いますが、イエス・キリストはすべて、有言実行です。言行一致です。必ず、預言の通り、十字架において贖いをなしとげるという言行一致です。そのように「あなたに言う」には真実が貫かれています。
また、「言う」は「ある」なのです。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1:3)というように、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言うとすると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたのです。無から有を呼び起こす神の言葉で、死人を生き返らせたのです。終わりの日には語られたすべての預言の言葉が、一言も地に落ちず、すべて実現します。イザヤ25:8及び、26:19の復活の預言もしかりです。
「永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ」。
「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます」。
「かわいそう」と思われたイエス・キリストはその終末のしるしとして、青年を生き返らせ、母親を慰めたのです。一時の慰めではなく、復活の福音という永遠の慰めを与えられたのです。主イエス・キリストは悲しい存在である私たちをかわいそうと思い、十字架において、すべての悲しみを担い、慰め主となってくださいました。主イエス・キリストは死と滅びに向かう私たちをかわいそうと思い、十字架で罪を贖い、死人の中から復活し、死と滅びから解放し、永遠の命と復活の希望を与え、真の慰め主となってくださいました。私たちは、今、ここで、慰め主のもとにまいりましょう。