ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

買ってはいけない 週刊金曜日コラム

2019-08-22 14:03:00 | 

大人になってから、私がしばしば自分を諌めていることがあります。

それは、会話において絶対に否定から入ってはいけない、とう事です。しばしばと書いたとおり、相手の言葉、相手の意思、相手の希望を最初から否定してしまうような愚かなことを繰り返してきたおバカが、この私なのです。

この性癖が厄介なのは、多くの場合、善意からくる否定だからです。

誰だってそうだと思いますが、自分の考え、発言をいきなり否定されると、反射的に反発するものです。口に出さなくても、敵意が生まれるのは避けがたい。

それが分かっていながら、ついつい否定から入ってしまうのは、その否定が相手を思ってのことだからです。善意は時として傲慢さにつながることに気づいていないからなのです。

私がこの悪癖に気が付いたのは、20代半ばでした。少し遅すぎたのは、若気の至りというよりも、若さゆえの傲慢さがあったからでしょう。良かれと思っての発言なのだから、許されて然るべきだと自分を誤魔化していた。

傷ついた相手の心情を思いやる気持ちに欠けていたと気が付いたのは、30代になってからだと思います。善意は独走しがちで、暴走すらやりかねない。私は苦い想いと共に、このことを痛切に思い知らされたものです。

残念ながら、今でも無意識にやらかすことがある。だからこそ、何度も自らを省みざるを得ない。分かっていながら馬鹿を繰り返すのだから、本物の馬鹿だと自覚しています。

善意を全て否定する気はないのですが、あまりに一方的過ぎる善意は、むしろ逆効果となることがある。そのことを教えてくれたのが、表題の書ではないかと思うのです。

ご記憶にある方も多いと思いますが、この本はかなり売れた。その内容を信じた方も結構いると思う。ですが、現在では「トンデモ本」として認定されている。

まったくのウソを書いているのではなく、自分の都合(化学物質は身体に悪いに決まっている)に沿った科学的データーのみを意図的に選択して、その部分だけを強調した記事を書き連ねている。

書かれている記事の大半が、現在では否定的に扱われているが、呆れたことに書いた者はまったく反省していない。当然である。善意で書いた記事なのだから、反対する者は悪意があるに決まっている。そんな悪意に負けてたまるかと、むしろ意気揚々としているから性質が悪い。

元々は伝説の名雑誌「暮らしの手帖」を真似たらしいが、自ら購入し実際に使って比較した覚悟のある記事とは似て非なるもの。自らの善意を前面に出すため、徹底的に否定から入ることで、より印象を高めた手法が如何に効果的なのか、よく分かります。

私には、そこまで自らの善意を盲信することは出来なかった。むしろ自分自身を常に疑い、省みる姿勢が相手に不信感を抱かせたのだと今にして分る。でも、私は人間は常に間違えを繰り返すと信じているので、自分だけを例外にすることは出来なかった。

だが、自らの善意を徹底的に信じる傲慢さゆえに、彼らは嘘を付き通せたのだろう。困ったことに現在もこの書の執筆者たちは元気に「買ってはいけない、使ってはいけない」と独善をまき散らしています。

くれぐれもご用心を。

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投げ過ぎ禁止

2019-08-20 12:47:00 | スポーツ

農家の方に聞いた話だが、野菜は多少酷に育てたほうが美味しくなるそうだ。

水をやり過ぎたり、肥料をやり過ぎると、野菜は怠けてしまって根を伸ばさない。すると台風などで強風が吹くと、すぐに根っこから折れてしまう。また水は枯れない程度にやるほうが、甘みが増すとか。

その話を聞きながら、人間も同じではないかと思う。

戦前と比べて、日本は豊かになった。とりわけ食生活は欧米化したせいか、カロリーが増加し、栄養も行き渡るようになった。その結果、日本人の背は伸びたし、足も長くなった。

ただ、その反面、頑丈さとか辛抱強さは衰えたように思う。背は低かったかもしれないが、体躯の頑丈さがそれを補い得た。脚は短かったかもしれないが、農作業で鍛えられた下半身の強靭さは凄かった。

もっとも地域差はあったらしく、子供の頃から農作業を手伝うことが普通だった地域の青年を集めた東北や九州の部隊は、精強な軍隊として知られていた。その一方で、都会育ちの青年たちを集めた部隊は弱かったらしい。なんとなく理解できる。

都会育ちに子のほうが食生活は豊かかもしれないが、足腰にキツイ農作業で鍛え、粗食に馴れている農家育ちの若者たちの屈強さには及ばなかったのだろう。

戦後の高度成長期を得て豊かになった日本は、どちらかといえば飽食の国である。柔らかくて美味しい食事になれた現代の日本人は、粗食で鍛えらえた戦前、戦中育ちの日本人に比べて、ひ弱になった部分は確かにあると思う。

実際、かつてプロ野球の名選手たちのタフネスぶりには驚かされる。よくぞ、あれだけ投げて、肩を壊さないものだと呆れてしまうレベルだ。その実績から判断する感覚は分かるが、今の時代には合わないことを理解すべきだ。

私が高校野球を嫌っている理由の一つに、昔の感覚で選手を酷使してしまうことがある。一例を挙げれば、作新学園のエースであった江川なんて、高野連に潰されたと思っている。

江川の全盛期は、間違いなく高校時代だと思う。少なくてもボールの速度と切れに関しては高校の時がベストだ。プロ入りしてから、投球術は上がったと思うけど、本格的な速球派としては、少し落ちるとさえ感じていた。それを自覚していたからこそ、投球の幅を広げたのだろう。

でも、江川本人は自らの速球こそに自身の価値を見出していたはずだ。その渾身のストレートを広島の小早川に打たれた時、彼はうずくまり、引退を決意したはずだ。

高校時代、異常なほどにマウンドに立ち、投げさせられたが故に、彼の肩は磨滅を早めたのだと私は確信しているのです。

今、話題に上がっている大船渡高校の佐々木選手は、160キロの速球を投げる未来の大器です。しかし、予選大会の決勝では、監督が敢えて投げさせずチームは甲子園には出場できませんでした。

その後、佐々木を出すべきだったと外野で口うるさく騒ぐ人たちがいます。甲子園で投げる佐々木投手を視たかったのでしょうけど、彼は高校野球好きの酒の肴ではありません。あくまで一人の高校生に過ぎないのです。

監督が休ませるべきと判断し、佐々木投手もそれに納得している以上、外野がとやかく言うのはお門違い。昔の頑健な日本人は、今の食生活の中では生まれません。無理をさせて才能ある選手を潰すようなことを避けるのが大人の務めだと思います。

30年前、作新学園の監督や高野連が、このような考えをもっていたら、江川は200勝を軽く超える大投手になっていたのではないか。私にはそう思えてなりません。

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アナコンダ4

2019-08-19 11:57:00 | 映画

嬉し、哀しやC級モンスター・ホラー。

中途半端に楽しめるB級よりも、C級のほうが楽しめるというか、笑える。でも、あまり真面目に作られると、笑いが冷たくなる。

最初に言っておくと、第一作である「アナコンダ」はB級モンスター・ホラーとして私は十分楽しんだ。まァ、巨大な蛇よりも、執念に囚われた人間のほうが怖いんだけど。

だけど二作目以降は、限りなくC級だと思っていた。だが、4作目ともなると完全にC級である。ただし3作目よりもCGの技術が上がっているので、最下位ではない。

でも私は断言する。蛇に表情を与えてはいけない。あくまで無表情であるから蛇は怖い。その点、この映画は妙にアナコンダの表情を細工し過ぎ。この監督、蛇の本当の怖さを分かっていないと思う。

蛇に限らず、爬虫類は無表情に襲ってくるから怖いのだ。ヘンな誇張の仕方は、むしろ逆効果だと思う。

しかし三作目より少しだけマシだけど、4作も作られるってことは結構人気あるのだなァ。誰が観るんだ、って私のような奴なんですけどね。でも頼むから5作目は止めてね。嫌な予感しかないからさ。

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夢見るギャンブラー

2019-08-16 13:41:00 | 社会・政治・一般

このお盆休みだが、あまり体調がすぐれず、ほとんど自宅にこもっていた。

ゴロゴロと寝転んでいることが多く、ナマケグマとしては本望の夏休みであったことは否定しない。

ゴロゴロしつつも、CS放送で恐竜もののドキュメンタリー番組をみたり、映画をみたりして休みを満喫していた。合間にCNNやBBCの報道番組もみていたので、日本との報道内容の違いを興味深く視ていた。

日本だと、台風がらみ、夏の海の遭難情報の他、やたらと韓国とのもめ事が報道の中心となっていた。しかし、欧米のメディアでは、北朝鮮の短距離ミサイルが取り上げられた以外、日本も韓国も蚊帳の外であった。

まァ欧米視点では、極東の小国同士のもめ事なんて興味がないのだろう。実際、南コリアが経済破綻しようと、日本が困惑しようと、世界の大勢には影響がないのだから当然だと思う。

私自身、南コリアの醜態は不快であっても関心は持てないでいる。ただ、日本のメディアが好んで取り上げるので、否が応でも目に入る。

私から見ると、南コリアの大統領は、いわば「南北統一」に取りつかれた夢見るギャンブラーだ。

とにかく、南北統一を推し進めたい。でも国民は案外と冷静で、世界最貧国との統一なんて先延ばしにしたいと内心思っている。だから統一推進政策は人気がない。そのため、政権を維持するためには、伝統的にやらかすのが反日政策の実行である。

この夢見るギャンブラーは、国民の支持が欲しくて徒に反日姿勢を堅持している。元々財閥嫌いの弁護士上がりであり、サムスンやLGがどうなっても構わないと思っている。願いは一つ、それは南北統一である。

皮肉なことに、誰もそれを応援してくれない。シナもロシアも冷淡であり、アメリカは否定的であることを隠さない。なによりも当の北コリア自体が、このギャンブラーをバカにして相手にしていない。

それでも夢見るギャンブラーは、ひたすらに賭け金を積み上げる。完全に夢に酔い痴れている。

こんな痴呆症を相手に話し合いなど通じる訳がない。日本としては、冷静に、かつ冷淡に、冷たい目線で距離を置くのが一番だと思います。

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隠された十字架(その二) 梅原猛

2019-08-15 11:02:00 | 

古代日本にキリスト教(景教)が入って来たとの記載は、日本書記に限らず、一切ない。公式にキリスト教が渡来したのは、戦国時代末期である。だが、その当時から日本にやってきたエスパニョーラの宣教師たちは、キリスト教布教の痕跡を嗅ぎつけていた。

日本では、古代にキリスト教が布教されたことがあるのではないか?そのような疑問を本国への書簡で複数の宣教師が記述している。

もっともこのキリスト教は古代に於いて異端とされたネストリウス派である。シルクロードを抜けて中華大陸へたどり着いたのが何時かなのさえ分からない。分かっているのは、唐の時代に大流行したことが石碑に刻まれていることだけだ。

その後、景教は儒教勢力の迫害に遇い、中原の地から姿を消してしまったから、余計に分からなくなっている。想像だが、おそらく中原の地に入ったのは、五胡十六国時代ではないかと思われる。

日本に入ってきたのは、隋が混乱を治めて統一国家を樹立した前後ではないか。当時の日本は、大陸情勢に目を尖らせており、情報収集に余念がなかった。推古天皇の時代、遣隋使を送ったのがその証左である。

推古天皇および蘇我氏は、隋の統治制度に注目し、それを日本に導入しようと試みたはずだ。もちろん皇太子の地位にあった厩戸王も、それに大いに協力したと思う。日本書記では、伝統の神道派の物部氏と、新しい仏教を薦める蘇我氏との争いが起こり、蘇我氏が勝利を収めたとされている。

しかし蘇我氏の専横が激しく、それに反発した中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を殺して、蘇我氏を政権から追いやった。これを大化の改新だと歴史書は教える。

だが、日本書記は文武天皇の指示で書かれたものであり、藤原不比等が編纂に関与している。そこには藤原家の支配、過去の行為を正当化する意図が含まれているのは自然なことだと思う。

そう考えないと、なぜに厩戸王が怨霊と化したのかが分からない。

そう考えると、どうしても避けて通れないのが景教である。推古天皇が蘇我氏と厩戸王の補佐の下、行った政策の中心は隋の最新の法制度を導入することだ。そのなかで、不思議なものがある。

それが四天王寺に設けられた施薬院や悲田院、療病院といった施設の設置である。私がそれを知った時、まず思い浮かんだのはキリスト教における救護院や、修道院といった施設である。

インドの地で生まれた仏教は、転生輪廻の輪からの脱却(解脱)を目指すもので、現世救済の意思は薄い。たがシナの地に伝播するようになるとその思想には、シナ人らしい現世利益を求める意向が含まれるようになった。

その仏教が日本に伝来したので、当初の仏教とは異なるが、それでも仏教に救護院や修道院といった発想はない。あるのはキリスト教である。なんで、仏教がと私は違和感を感じたのは、私がキリスト教徒(十代半ばまでですが)であったからだ。

日本は大陸から最新の法制度、知識、技術を求めたが、多神教である神道の影響か、宗教に関してはかなりアバウトな受け入れ方をしている。隋や唐の律令国家体制には、儒教という宗教がその骨格をなしている。しかし、日本人は儒教を教養として受け入れる一方、宗教としては受け入れていない。

その代りに仏教が大きな柱となっているのだが、古代の日本に於いては、もしかしたら景教や拝火教(ゾロアスター教)、マニ教なども知識として導入されていた可能性を否定できない。

証拠となる史書は皆無だが、私は推古天皇や蘇我氏、厩戸王は景教の影響をかなり受けているのではないかと想像している。それは梅原猛氏も同じように感じたのではないか。だからこそ、本文には一切記述していないが、そのタイトルに「失われた十字架」という名称を付けたのではないか。

厩戸皇子が怨霊と化すほどに怒ったのは、キリスト教徒であったのに、仏教徒の名を冠せられたことへの怒りではないか。法隆寺が一度火災により消滅したのは、本来の法隆寺は景教の拠点であったからではないのか。

まァ、これはあまりに極端な推測であり、実際は仏教、景教などを最新の知識として雑多に受け入れていたに過ぎないのではないかと思う。いささかややこしいのは、当時の日本が導入しようとした隋の国政は、基本儒教を柱にしていることだ。

だが日本は何故か儒教を宗教としては受け入れず、その知識のみを受け入れている。代わりに仏教を国教として受け入れているのだが、儒教同様に、景教もまた知識として厩戸王は受け入れていたのではないかと思う。

妻子共々惨殺された山背大兄王を差し置いて、父である厩戸皇子が怨霊と化したのは、まさに事実を塗り替えられたことへの死者の恨みではないのか。だからこそ、仏教の力を借りて法隆寺という怨霊鎮魂のための施設を藤原氏は再建した。

なお、改めて確認しますが、現在の歴史学会では聖徳太子の怨霊慰撫のための法隆寺などという仮説は採用されておりません。あくまで異端の論議に過ぎないのが学会の公式的な立場です。根拠は証拠となる文献がないからです。

私は学者ではなく、ただの歴史好きに過ぎないので、このような思索の彷徨は好きなのです。資料がないからといって、悩み、考える自由はある。だから梅原氏の熱心な研究を楽しんでいますけどね。

ちなみに表題の書は読むのは、けっこう大変です。梅原史観の承継者とも云える井沢元彦氏の「逆説の日本史」のほうが読み易いでしょう。でも、梅原氏の詳細で執拗な探求を楽しむのも良いと思います。

繰り返しますが、聖徳太子こと厩戸王がキリスト教徒であったなんて奇論に過ぎません。ただ、私には何故に聖徳太子が怨霊化したのかが分からない。なぜに仏教の寺院にキリスト教的な施設があったのか分からない。

このあたり、まだまだ調べるべきこと、数多ありそうなのです。時間をかけて、ゆっくりといろんな本を読んで勉強しようと思います。

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