ヌマンタの書斎

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隠された十字架(その二) 梅原猛

2019-08-15 11:02:00 | 

古代日本にキリスト教(景教)が入って来たとの記載は、日本書記に限らず、一切ない。公式にキリスト教が渡来したのは、戦国時代末期である。だが、その当時から日本にやってきたエスパニョーラの宣教師たちは、キリスト教布教の痕跡を嗅ぎつけていた。

日本では、古代にキリスト教が布教されたことがあるのではないか?そのような疑問を本国への書簡で複数の宣教師が記述している。

もっともこのキリスト教は古代に於いて異端とされたネストリウス派である。シルクロードを抜けて中華大陸へたどり着いたのが何時かなのさえ分からない。分かっているのは、唐の時代に大流行したことが石碑に刻まれていることだけだ。

その後、景教は儒教勢力の迫害に遇い、中原の地から姿を消してしまったから、余計に分からなくなっている。想像だが、おそらく中原の地に入ったのは、五胡十六国時代ではないかと思われる。

日本に入ってきたのは、隋が混乱を治めて統一国家を樹立した前後ではないか。当時の日本は、大陸情勢に目を尖らせており、情報収集に余念がなかった。推古天皇の時代、遣隋使を送ったのがその証左である。

推古天皇および蘇我氏は、隋の統治制度に注目し、それを日本に導入しようと試みたはずだ。もちろん皇太子の地位にあった厩戸王も、それに大いに協力したと思う。日本書記では、伝統の神道派の物部氏と、新しい仏教を薦める蘇我氏との争いが起こり、蘇我氏が勝利を収めたとされている。

しかし蘇我氏の専横が激しく、それに反発した中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を殺して、蘇我氏を政権から追いやった。これを大化の改新だと歴史書は教える。

だが、日本書記は文武天皇の指示で書かれたものであり、藤原不比等が編纂に関与している。そこには藤原家の支配、過去の行為を正当化する意図が含まれているのは自然なことだと思う。

そう考えないと、なぜに厩戸王が怨霊と化したのかが分からない。

そう考えると、どうしても避けて通れないのが景教である。推古天皇が蘇我氏と厩戸王の補佐の下、行った政策の中心は隋の最新の法制度を導入することだ。そのなかで、不思議なものがある。

それが四天王寺に設けられた施薬院や悲田院、療病院といった施設の設置である。私がそれを知った時、まず思い浮かんだのはキリスト教における救護院や、修道院といった施設である。

インドの地で生まれた仏教は、転生輪廻の輪からの脱却(解脱)を目指すもので、現世救済の意思は薄い。たがシナの地に伝播するようになるとその思想には、シナ人らしい現世利益を求める意向が含まれるようになった。

その仏教が日本に伝来したので、当初の仏教とは異なるが、それでも仏教に救護院や修道院といった発想はない。あるのはキリスト教である。なんで、仏教がと私は違和感を感じたのは、私がキリスト教徒(十代半ばまでですが)であったからだ。

日本は大陸から最新の法制度、知識、技術を求めたが、多神教である神道の影響か、宗教に関してはかなりアバウトな受け入れ方をしている。隋や唐の律令国家体制には、儒教という宗教がその骨格をなしている。しかし、日本人は儒教を教養として受け入れる一方、宗教としては受け入れていない。

その代りに仏教が大きな柱となっているのだが、古代の日本に於いては、もしかしたら景教や拝火教(ゾロアスター教)、マニ教なども知識として導入されていた可能性を否定できない。

証拠となる史書は皆無だが、私は推古天皇や蘇我氏、厩戸王は景教の影響をかなり受けているのではないかと想像している。それは梅原猛氏も同じように感じたのではないか。だからこそ、本文には一切記述していないが、そのタイトルに「失われた十字架」という名称を付けたのではないか。

厩戸皇子が怨霊と化すほどに怒ったのは、キリスト教徒であったのに、仏教徒の名を冠せられたことへの怒りではないか。法隆寺が一度火災により消滅したのは、本来の法隆寺は景教の拠点であったからではないのか。

まァ、これはあまりに極端な推測であり、実際は仏教、景教などを最新の知識として雑多に受け入れていたに過ぎないのではないかと思う。いささかややこしいのは、当時の日本が導入しようとした隋の国政は、基本儒教を柱にしていることだ。

だが日本は何故か儒教を宗教としては受け入れず、その知識のみを受け入れている。代わりに仏教を国教として受け入れているのだが、儒教同様に、景教もまた知識として厩戸王は受け入れていたのではないかと思う。

妻子共々惨殺された山背大兄王を差し置いて、父である厩戸皇子が怨霊と化したのは、まさに事実を塗り替えられたことへの死者の恨みではないのか。だからこそ、仏教の力を借りて法隆寺という怨霊鎮魂のための施設を藤原氏は再建した。

なお、改めて確認しますが、現在の歴史学会では聖徳太子の怨霊慰撫のための法隆寺などという仮説は採用されておりません。あくまで異端の論議に過ぎないのが学会の公式的な立場です。根拠は証拠となる文献がないからです。

私は学者ではなく、ただの歴史好きに過ぎないので、このような思索の彷徨は好きなのです。資料がないからといって、悩み、考える自由はある。だから梅原氏の熱心な研究を楽しんでいますけどね。

ちなみに表題の書は読むのは、けっこう大変です。梅原史観の承継者とも云える井沢元彦氏の「逆説の日本史」のほうが読み易いでしょう。でも、梅原氏の詳細で執拗な探求を楽しむのも良いと思います。

繰り返しますが、聖徳太子こと厩戸王がキリスト教徒であったなんて奇論に過ぎません。ただ、私には何故に聖徳太子が怨霊化したのかが分からない。なぜに仏教の寺院にキリスト教的な施設があったのか分からない。

このあたり、まだまだ調べるべきこと、数多ありそうなのです。時間をかけて、ゆっくりといろんな本を読んで勉強しようと思います。

コメント (4)
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