本能に悩まされない人なんて、いる訳ないと思っている。
人である以上、三大本能といわれる食欲、性欲、睡眠欲は誰にでも必ずある。人によっては、これに権勢欲が加わる場合もあるし、一つの欲望に偏る場合もある。
私自身に関していえば、権勢欲には乏しいが、他の本能は人並みにあると思っている。ただ、若干性欲が不安定だ。性欲は種としての保存本能でもあると同時に、人間の場合は家族愛、夫婦愛にもつながる。
私の場合、家庭に関していささか消極的なので、相手が妊娠することを異常に恐れる気がある。家庭あるいは家族を嫌っているわけでは断固ないののだが、家庭に縛られたくない気持ちが強い。
昔、十代の頃に付き合っていた女性から「ねぇ、あなた・・・」と言われて、急に逃げ出したくなったことがある。今まで「ヌマンタ君」だったのに、なぜに急に「あなた」なんて呼ぶのか。過剰反応だと分かってはいたが、急用を思い出して帰ろうかと思ったぐらいだ。
ただ性欲がないわけでも、乏しいわけでもなく、やることは一応やっている。強いて言えばバリエーションには欠けているが、別に女装したいわけでもなく、痛くするのも、されるのも嫌いだし、正統派というか平凡なスケベで十分だとも思っている。
先に権勢欲には乏しいと書いたが、実のところ知識欲は強い方だと思っている。勉強が好きな訳ではないと思うが、未知の世界を知ることを喜ぶ志向は、かなり強いと思う。小学校低学年の頃の愛読書が、百科事典であったのも、そのせいだ。
この知識欲の延長線上にあると思うのが、趣味への偏重ではないか。私の場合は、主に読書だが他にも虫取りとか、プラモデル作りとかには、並みの子供以上に集中して熱中していた。今はどちらもやっていないが、プラモ作りは年老いたらやってみたいと思っているぐらいだ。
いったん集中しだすと、食べる時間も、寝る時間さえも惜しくなる。とにかく邪魔されたくない。ひたすら集中したい。しかし、狭い家に4人家族であったため、なかなかその時間は取れなかったことが、後の一人暮らしへの渇望につながったようだ。
ただ、今にして思うと、一人暮らしの時よりも、母や妹たちが騒がしいあの家に居たときのほうが、集中力はあったように思う。妹たちがどれほどお喋りに熱中していようと、面白い本を読みだしたら、一切の雑音は消え失せていたからだ。
あの十代半ばの異常なまでの集中力は、凄まじいほどで、あの力が今あったらと思わずにはいられない。ただなァ・・・あの頃は自分の性欲を持て余していたことも確かで、あれはあれで苦痛だった。
自分が何に悩んでいるか分からなかった。どうも、それが性欲に絡むものであるらしいことは察しがついた。でも、どうしたらいいか、それが分からなかった。仕方ないので、エロ本を入手してとりあえず知識だけは得て、その後友人たちといろいろ話して、ある程度分かった。
分かったけれど、それを実行に移せるかどうかは別問題。思い出すだけで、冷や汗が出てきそうな恥ずかしい時間を費やしたものだと、自分でも呆れてしまう。なんで、あんなに不器用だったのだろう。
今だったら簡単に言えるのに、あのころは妙な拘りがあって口に出来なかった。「愛している、だからSEXしたいんだ」。
身もふたもない言いようだが、これが一番正直な本心だと思う。
表題の本で解説されていたが、多くの生物にとって生殖に愛はいらない。魚などは海中に精子を放出するだけで、それを近くにある卵子が受け入れるだけ。種族愛ならあるのだろうが、個体としての愛情なんて必要ない。
ところが、知能が高等化して、集団を構成するようになると相手の気持ちが重要になる。サルのグルーミングなどは、サル同士の関係を円滑に保つだけでなく、生殖への重要な過程でさえある。
これが人間にもなると、愛なくしての生殖は難しいほどだ。しかも、その愛の表現の仕方は多彩にして多様。もっとも欲望を多様化して、しかも高技術度を必要とするようになったのは、性欲だけではない。
本能のなかでも、決して無くすことが出来ない睡眠欲だが、人間ほど多種多様なベッドをしつらえる生物はいない。食欲だってそうだ。単に栄養をとるだけでなく、美食までも求め、その食事の場所さえ工夫を凝らす。
もしかしたら、人間って地球上で最も欲望の深い生き物なのかもしれない。その強き欲望故に、地球の資源を探し求め、大量に消費することを止めない。そして、その資源を掘りつくし、使いつくし、それでも欲望を満たすための努力を止めない。
人間って生物が滅びるとしたら、その欲望の強さゆえではないだろうか。私にはそう思えてなりません。
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