ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

偶然と必然と

2024-08-02 10:41:01 | 社会・政治・一般

ポルトガル人が種子島にたどり着いたことで、日本の存在が西欧に知られた。わりと勘違いしている人が多いが、日本はけっこうな大国である。隣に超大国シナがあるため、必要以上に小さく感じてしまうことが原因だ。

山地が多く、平野が少ないのは事実だが、それを補って余りあるのが降水量の多さと季節変動の激しさだ。豊かな山林は多くの地下水を蓄え、川はミネラル豊富でプランクトンに満ちている。これが沿岸に豊かな海産物をもたらす。

そして北から冷たい寒流が流れてきて、南からの暖かい暖流とぶつかる。これが世界屈指の漁場をもたらしている。台風の通り道であることから、集団での災害対策の必要があり、これが結束力の高い国民性を培った。

戦国時代末期には、この細長い列島に1200万人(1800万人説もある)が住んでいたとされる。しかも、戦慣れした戦士と、閑農期には戦士に替わる農民兵を抱えている。戦国時代には、数万の大軍を編成できる大名が多数いたうえに、輸入した火縄銃を直ちにコピーし、かつ改良までする潜在的工業力の高さを誇る。

イベリア半島からイスラム教徒を駆逐したスペイン人やポルトガル人と云えども、この死を恐れぬ戦士たちを征服するのは困難だと認めざるを得なかった。参考までに当時のスペインの人口は600万で、ポルトガルに至っては130万である。当時世界を二分した二か国合わせても日本には及ばなかった。

そこで登場するのがイエズス会である。極めて戦闘的なキリスト教の布教部隊である。

一応書いておくと、イエズス会は反プロテスタントの尖兵として生まれたので、当然にカトリックである。そして当時カトリックの総本山であるローマ教皇は、奴隷に関してはキリスト教徒とそうでないものに分けて捉えていた。すなわち非キリスト教徒の奴隷は肌の色、民族に関わらず人間扱いしていない。

ただ、イエズス会はどちらかといえば奴隷に対しては寛容であったらしい。意気揚々と日本をキリスト教に染め上げようと乗り込んできた宣教師たちは、身の回りの世話を奴隷にやらせることもあった。その一人が黒人奴隷の弥助である。

目新しいものが好きな織田信長は、さっそくにこの黒人奴隷を気に入り、弥助と名付け身近に置いている。実際、弥助はかなり屈強な体躯で、信長は部下と相撲を取らせて、その強さに感銘を受けて弥助に武器さえ持たせている。決して奴隷として扱っていた訳ではない。

話は飛ぶが、例のゲーム「アサシンクリード」の主人公として抜擢された弥助は、ほぼ侍に近い存在であったと思う。この時代、侍の定義自体が曖昧なので、侍ではないと断じるほうが無理がある。ちなみに本能寺の変の時、信長の命で単身脱出された後の動向は不明だが、宣教師の元へ戻り故国のマダガスカルに帰ったとされる説もある。実際マダガスカルには、ヤスケという名前の現地人が今もいる。

アフリカのみならず、アメリカやヨーロッパでもこの実在した黒人の侍に関心が沸くのは必然と言ってよい。それに乗じて厄介なことを引き起こしたのが先日書いた日大の准教授であったトーマス・ロックリーである。よりにもよって根拠資料もなくして、Wikiの英語版に戦国時代の日本には8千人の黒人奴隷がいたなどと書き込んだ。

どうやら元ネタは、反日自虐が日本の平和を守る道と信じる左派日本人らしい。既に幾人か名前が挙がっているが、現時点では灰色だと私は判じている。問題はこれまで日本に伝道できずに不満を抱えていたポリティカル・コレクトの面々である。

日本は黒人奴隷を使っていた歴史を持つと宣伝しだした。日本にも古代においては奴婢がいたことは歴史的事実だ。しかし、そもそも黒人奴隷どころか、黒人自体おらずむしろ珍しく思っていたのが実情だろう。

この捏造問題をポリコレの連中がどう活用するのか知らないが、日本政府とりわけ外務省は日本の名誉のためにも動くべきであろう。まぁ政治が主導してやらないと前例のないことをやりたがらない役人根性は治らないと思いますがね。

コメント (7)
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