1980年代に若者を中心に人気を博したSF小説があった。
当時、SFといえばわりとマイナーな分野で、純文学を愛する読書家からは、子供向けの娯楽作品だと蔑まれていた。ただ日本人の舶来品信仰のおかげで、海外のSF作品は別格評価されることもあった。
もっともスペースオペラは馬鹿にされていたし、とりわけ日本人作家の書いたSF作品は蔑視の対象でさえあった。例外は星、小松、筒井の御三家ぐらいで、気鋭の若手作家などは、出版社からも低くみられていた。
名前は挙げないが、ある日本人の若手SF作家が、ある漫画の原作をやったところ、その原稿料が小説の4倍ちかくて唖然としたほどである。かくも馬鹿にされていた日本のSF小説である。
この前提を知らないと、田中芳樹の失墜は理解できないと思う。
今でこそファンタジー作品、SF作品だけでなく、歴史もの、エンターテイメント作品を数多く手掛けている田中芳樹であるが、最初はSF作家としてデビューしている。
そしてその最大のヒット作が「銀河英雄伝説」通称、銀英伝である。ろくに宣伝もなかったと思うが、この作品は全10巻にも及ぶ長編ながら、若者たちから絶大な支持を受けた。
もっとも今にして思うと、SF小説というよりも架空歴史小説の趣が強い。これは歴史を学びたくて、わざわざ学習院大学に入った田中本人の志向なのだろう。そして、この歴史志向が田中芳樹を失墜させたのだが、それは後の話。
銀英伝は間違いなく傑作であった。エイリアンも出てこないし、超能力も出てこない。ただ、今より進んだ技術を持った人類が、銀河宇宙を舞台に相争うドラマこそが本質であった。
いくら未来になり、文明が進歩しても、人間の本質は変わらないことが良く分かる作品であった。そして何よりも登場人物が生き生きと輝いていた作品でもあった。
私は今でも登場人物の大半を思い浮かべることが出来る。物語が終えた後でも、彼らが活躍する様子を思い浮かべることが出来るほど、その人物造形は見事であった。
だが、主人公であるラインハルトは病気で亡くなり、ライバルでありもう一人の主人公とも云えるヤンも非業の死を遂げている。にもかかわらず、この小説には悲劇の残り香は薄い。
むしろ残された者たちが、物語をその後も紡いでいくことを暖かい気持ちで想像できるエンディングであった。それゆえに銀英伝は多くの若者たちの心に深く刻まれる名作と化した。
だが、アルスラーン戦記は違う。
前回、書いた通り、アルスラーン戦記の最終巻を読んで満足した読者は、おそらくほとんど居ないと思う。それくらい酷い出来であった。
なぜに田中芳樹はここまでして、自らの作品を貶めたのか。思うにその根底にあるのはSF作家として文壇から辱められたコンプレックスではないかと思う。
確認するがアルスラーン戦記は娯楽作品である。読者を楽しませてこそ価値がある。しかし、田中芳樹はそのことを忘れた。その代りに、人類の歴史を彩る悲劇を体感させるが如き作品に仕上げてしまった。
たしかに人類の歴史は悲劇の繰り返しである。善意は悪意に踏みにじられ、正義は仮借ない怒りで残酷さを正当化する。愛する者を想う気持ちが、他者の平穏を切り裂き、希望と努力が無関心と怠惰により押し潰される。それが人類の歴史の一面である。
歴史を志した田中芳樹が、小説家に転じた当初は読者を楽しませることを選び、その結果SF作家として、またファンタジー作家として文壇から卑下された。その屈辱を忘れず、本来エンターテイメント小説として読者を楽しませるはずの作品を使って、歴史の残酷さをひけらかして娯楽小説作家としての汚名を拭おうとした。
私にはそうとしか思えない。田中芳樹は「皆殺しの田中」の異名を持つ。銀英伝でも多くの登場人物を殺している。それでもそのエンディングには悲劇の匂いはしない。
ローエングラム王朝は賢母ヒルダにより正しく導かれるだろうし、その傍らにはミッターマイヤーが議会と軍に厳しい目線を注ぐことが読者には予想できた。アッテンボローは地方の議会で野党側の論客として、民主主義の芽を絶やさないように奮戦しているだろう。そしてユリアンは、ヤンの果たせなかった夢を引き継ぎ歴史学者として活躍しているはずだ。
主人公は死んでも、その後に続くはずの物語は決して悲劇とならない。だからこそ銀英伝は名作として名を遺した。しかし、アルスラーン戦記は違う。エンディングの後に続く未来に、読者は期待を持つことができない。出来るはずのない無様な終え方をしたのがアルスラーン戦記である。
繰り返すが、アルスラーン戦記は娯楽小説である。人類の歴史の闇を照らすための小説でもなければ、作家田中芳樹の価値を上げるための小説でもない。
敢えて私は断言したい。小説家としての田中芳樹は死んだと。正直言って、私はもう田中作品を読む気持ちが枯渇しましたよ。