ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

死刑判決を聞いて思うこと

2020-03-26 11:38:00 | 社会・政治・一般

この事件の第一報はラジオで聴いた。

当初、寝ぼけ眼で聴いていたせいか、どかかの国でまた銃による大量殺人事件が起きたのだと勝手に決めつけていた。でもラジオから「相模原では・・・」の音声が聴こえてきて、ビックリして目が覚めた。

まさか日本でアメリカのような大量殺人事件が報じられようとはと、暗然たる思いを抱いた朝であった。これが津久井やまゆり園事件の第一報であり、先週には死刑判決が下った。

死刑そのものに異論はない。ただこの犯人に限らないが、近年妙に他人を見下すことを平然と口にする人が増えてきたように思えてならない。

本質的なことを言えば、人は他人よりも上位の立場に立ちたがるものだ。その根拠となるのは、社会的地位であったり、金であったり、あるいは名声であることもある。

社会的生物である人が、その属する社会のなかで上位を目指すことは本能的なものである。私もそれを否定する気はない。

しかし、何故に下位の者を見下すのか。いや、上位を目指す為に努力を惜しまぬものが、その努力を怠るものを侮蔑する感情なら分かる。しかし、下位にいる者の中には己の責任によらずして落ちてしまったものもいる。

地震や津波などの天災もそうだし、今回の被害者のように障碍者として産まれてしまったものに何の咎があろうか。ましてや生きている価値がないなどと、他人が決めつける権利があろうはずがない。

ところが今回の植松被告のように、他者を見下すことを当然のように思い込む下位の者が増えているように思えてならない。決して口外しないだろうけど、霞が関や大手町のいわゆるエリートには、他者を見下している人が少なくない。これは感心できることではないが、エリートになるための努力を想えば、分からなくもない。

ところが近年は、社会的な落ちこぼれ、ニート、低所得者などにも、この顕著な他者への見下し姿勢が増えているように思える。社会的な劣等感の裏返しに過ぎないと考えていたが、どうもそれだけではないようだ。

下記に添付したのは、今回の植松被告が衆院議長に送った手紙の一部だそうだ。なんとも呆れる内容だが、ここで感じるのは強力な自己顕示欲だ。自己を客観視できない愚かさはともかくも、彼が間違った方向に突き進んでしまったことは分かる。


これは当たって欲しくない想像だが、植松被告のように満たされぬ思いを貯め込んだ社会的地位の低い者は他にも相当数いると思う。もちろん、昔から劣等感と自己顕示欲、歪んだ社会奉仕思想などを持った者はいた。

だが、ここまで歪んだ例はそう多くはなかったはずだ。まだ上手くまとめられないが、戦後GHQが方向性を示し、保守政権が実施してきた日本社会の在り方が、次第に時代に合わなくなってきたことを示しているように思える。

政府が描いた社会設計の図面が、戦後の経済成長を達成してきたのは事実だ。しかし、高齢化と少子化によりその図面が現実に反映しずらくなってきたのではないか。成長しか念頭になかったのに、低成長どころか経済、社会の規模縮小という現実に対応できなくなってきている。

そのズレから生じた歪みが、今回のような異常な犯罪者を生み出す土壌になっているのではないか。

嫌な予測ですけど、今後も似たような事件が痴呆老人や介護を必要とする人たちをターゲットに生じる可能性は高いと考えています。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする