ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

知恵おくれに思うこと

2013-09-17 12:04:00 | 社会・政治・一般

見て見ぬふりだけでは良くない。

私が通勤に使う電車の路線には、いわゆる知恵おくれの子供が通う学校があるらしい。子供といっても十代後半であるようなので、学校というよりも施設なのかもしれない。

なぜ分かるかと云えば、電車内での奇行ゆえである。ある青年は電車に乗ると、先頭から最後の車両までを練り歩き、時折奇声を発したりしている。これを通勤ラッシュのなかでやるので、目立つといえば目立つ。

だが、大変興味深いことに誰も彼を止めたり,諌めたりすることはない。少し迷惑に思わないでもないが、実害はないし、よく見れば分かるのだが、誰かにぶつかったりするような不作法はない。

私の見たところ、どうも車掌さんの真似をしているように思える。私の記憶では十数年前は、母親と思しき人に手を引かれていたことを思えば、一人で電車に乗り目的地に向かうこと自体、たいしたものだと思う。

他にも数人いるようだが、いずれも少しだけ常軌を逸しているように思うが、だからといって凶暴とは程遠く、むしろ大人しい人たちなのだと良く分かる。だから、多少の奇行があろうと、誰も咎めたりせずに、見て見ぬふりをしている。

ただし例外がある。電車に乗り込む時、朝のラッシュ時は列を作るのだが、彼らの中には列に並ばず、平然と割り込んでくる場合がある。日頃は見て見ぬふりをする私だが、この時だけは口を出す。

別に声を荒げるでもなく、ただ温和に「列を守りなさいな」と声をかける。すると、大人しく後ずさり、列の後ろから乗車してくる。私が肯くと、少し躊躇いながらも肯き返してくる。それ以上はなにも起こらない。

これは私の独断ではない。以前、ある知恵おくれの子供をもつ親御さんから云われたからだ。間違ったことをした時は、優しく注意して欲しいと。彼らも社会の一員として受け入れて欲しいので、見て見ぬふりをしないで注意して欲しいと。

知恵おくれの人たちは、私の知る限り、非常におとなしい。いかに奇声を上げようと、妙な笑い声をたてようと、決して荒ぶることはなく、むしろ怯えることの方が多い。経験上、優しく注意してあげて、それに逆らってきたことは一度もない。

白状すると、それが正しいことだと自覚していても、注意をするのはいささか気が重い。注意した後で、周囲から冷たい視線を投げかけられたこともある。要するに「知恵おくれなのだから、ほっといてあげなさいよ」ということなのだろう。

如何なものかと思う。それでは隔離しているのと同じではないか。如何に知恵おくれであろうと、一人の人間であり、その存在をあまりに無視しすぎることは、むしろ問題だと思う。

多少の奇行なら、私だって目くじら立てることもなく、見て見ぬふりをしている。しかし、社会の一員として守るべきルールはある。それを守らせることは、結果として彼らの存在を許容することにもつながる。

実際問題、外に一人で行動するような知恵おくれの人は、家族や施設の関係者が一人でも大丈夫だと判断している。なればこそ、彼らを社会の一員として受け入れることが必要ではないのか。

家庭や施設に閉じ込めておくことが最上の方法だとは思わない。彼らのような存在を許容できる寛容な社会であるほうが、私には幸せに思えてならない。やもすると、彼らを見て見ぬふりすることは、彼らを蔑視し差別することにつながるように思うのです。

コメント (6)
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