ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

宦官 三田村泰助

2010-01-25 12:54:00 | 
不思議な存在だと思う。

私が宦官という存在を知ったのは、おそらくは水滸伝だった。しかし、その時はよく分っていなかった。その後、漫画家の横山光輝が司馬遷の生涯を描いた漫画を読み、彼が武帝の怒りに触れて宮刑(性器の強制除去)を受けて、無理やり宦官にさせられたことを知った。

有能な官僚であった司馬遷が、この処遇に怒り、絶望し、その鬱屈した想いで史記を書いたと知って、大いに驚き、そして改めて大作である史記を読もうと決意したのは中学2年の時だった。

今にして思うと、史記は私の手に余る内容であったと思うが、これが私の歴史への関心の第一歩であったと思う。必然的にシナの大陸の歴史には詳しくなったが、改めて驚くのはこの宦官という摩訶不思議な存在の影響の大きさだ。

シナの歴代王朝の腐敗と衰退には、必ずと言っていいほど宦官が介在する。多くの儒学者が宦官の弊害を説き、また多くの皇帝たちが宦官の権勢を削ぐことに尽力している。

ところが、私の知る限り宦官を完全に廃止しようとした皇帝はいなかった。何故だろう?

昨年、kinkachoさんに紹介されたこの本を読んで疑問が氷解した。そうか、必要だったのか・・・私は皇帝の権力を笠にきて権勢を振るう宦官というイメージに縛られていたが、宦官以外に信用できる相談相手がいなかった皇帝の孤独には考えが及ばなかった。

母親にではなく、乳母や宦官に育てられた皇帝たちが宦官に対して身内に接するが如きの感情を抱いていたとは驚きだった。その背景にあるのは、いかに有能であろうと所詮は他人である文官たちへの不信感だ。

自分以外の人間を信用しな国であるシナでは、親族と同郷の者だけが一応信用できるとされている。そのため、同じ利害が伴わぬ限り、決して他人を信用することがない精神風土が、皇帝の宦官依存の土壌であった。

おそらくは、その精神風土は今も変らない。最高権力者の血族による権力移譲が必要ない以上、後宮は不要であり、必然的にその管理者である宦官も不要だ。だから、再び宦官が復活することはないと思うが、他人を信用できない社会では常に権力を巡る戦いが起こるのは必然だ。

本来は法治こそが国を安定させる基盤足りうるものなのだが、私の知る限りシナの民は今も法も行政も信じない。信じているのは金の力であり、武による力だ。

他人を信用できない国では常に権勢争いが絶えない。シナは今後、世界経済の牽引車たりうる巨大な市場を持つが、一方できわめて不安定で好戦的な体質を持つことは忘れるべきではない。

この危険な隣人とのお付き合いに、「友愛」は失笑の対象でしかなく、むしろ付け込まれる可能性のほうが高いことは、今の民主党政権をみれば明らかだと思いますね。
コメント (4)
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