ヌマンタの書斎

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「神曲地獄編」 高木彬光

2007-01-23 12:23:50 | 
昭和50年代初頭だと思うが、TVで生中継されていた「浅間山荘事件」とその後発覚した「日本連合赤軍リンチ事件」は、事実上学生運動に止めを刺してしまったと思う。

この頃までは、マルクス主義を掲げる左派政治活動には、かなりの大衆からの支持があった。なかでも若者たちが惹き付けられ、参加した学生運動は社会を動かすほどの力があった。

しかし、70年安保反対闘争に敗れてからの学生運動は急速に行き詰った。その焦りが浅間山荘事件とリンチ事件につながったのだと思う。表題の作品は、その浅間山荘事件と、その後の日本連合赤軍のリンチ事件の顛末を書き記したもので、苛烈で残虐な若者たちの暴走ぶりが描かれていた。学生運動への幻想を打ち砕く、衝撃的といっていい内容だと思う。

以後、学生運動に対する世間の評価は激変して、支持を失うどころか、白い目で見られるようになってしまった。中革派や革マル派の内ゲバ闘争が、それを加速化してしまい、現在では生き残っているのが不思議なほどだ。

正直言うと、私は学生運動家たちを応援していた。高校卒業まで住んでいた町は、大学が2つほどあり、また安い学生向きのアパートが数多くあったため、左派学生運動家がかなりいた。私が初めて彼らと接触をもったのは、近所の大学の文化祭だった。そこで毛沢東の毛語録の読書会に出席したのが、始まりだった。ちなみに当時小学6年生だったので、正式なメンバーにはなれるはずもなかったが、メンバーに知人が何人もいたので、予備メンバー的扱いだった。けっこう可愛がられたと思うし、私も大人の仲間入りをしたみたいで、気分良かった。

ただ、参加しているうちに気が付いた。グループに二つの派閥があった。一つは話し合い派で、もう一つが武力革命派であった。幼少時、米軍基地の隣町で言葉の通じない白人の子供たちと喧嘩に明け暮れた経験をもつ私は、話し合いなんざ特定の場合にしか役に立たないと考えていたので、当然に武力闘争、武力革命路線支持派であった。

何度も書くが、マルクス主義が世界に広まった最大の要因は、武力による政治闘争を肯定したことだ。だからこそ、世界各国から危険思想とされ、禁じられ弾圧された。ところが、なぜか日本では、マルクス主義の本質である、武力革命志向は抑制されてしまっていた。

もともと日本は、和をもって尊ぶお国柄であり、話し合い志向の強い気風であることは承知している。私が気に入らなかったのは、話し合い至上主義とでも言いたくなる頑迷さだった。100時間話し合うより、一発の拳骨で解決することだってある、が私の実感だった。

だから、浅間山荘事件の時も、警官隊に追いやられる学生運動家たちを応援していた。それだけに、その後のリンチ事件などの顛末を知った時は失望が大きかった。なにを馬鹿やっているのだと、悲憤したほどだ。武力は権力との闘争にこそ用いるべきで、自滅してどうする?

私が関わっていた読書会のメンバー内でも、熾烈な総括論争があり、最終的には「話し合い路線」が採択され、武力革命路線は否定されてしまった。私はずいぶんと失望したが、それ以上にがっかりしたのは、学校でマルクス主義を教える際、なぜか武力肯定思想であることを教えないことだった。嘘を学校で教えてどうする?

次第に政治に対する関心が薄れ、高校生の頃には完全に疎遠となってしまった。それでも偶に本屋さんで、昔の学生運動家たちの名前を見ると、つい手にとってみる。哀しいことに、なんだか懐メロ特集みたいな扱いになっている。たしかに稚拙な学生運動だったのかもしれないが、それでいいのか。

当時の熱気を多少でも知る私からすると、間違っていた過去を消すかのような振る舞いは愚かしいし、哀しいし、するべきではないと思う。正しく書き残すことこそ、未来への教訓となる。困ったことに、表題の本も書店では見つけられなかった。自宅の本棚の奥から、ようやく見つけ出した次第。

それにしても高木彬光といえば、かつては社会派作家として文壇の大御所の一人であったはず。なにゆえ、これほど見つけにくいことになったのだろう?時代の変化といえば、それまでだが、なんとはなしに寂しさも感じます。
コメント (3)
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