のろや

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『カポーティ』

2006-10-23 | 映画
地獄の蓋を開けて
上からのぞき込んでいるはずだったのに
気がつくと自分自身が地獄のただ中に立っていた
そんな作家のお話です。

『カポーティ』を観てまいりました。
ソニー・ピクチャーズ - カポーティ

!WARNING!以下、映画の内容に触れています。かなり触れています。浜村淳です。さてみなさん。



まずもって、10月14日の15:00から京都シネマで本作をご覧になっていた皆様に、わたくしは謝らねばなりません。
ペリーが絞首台から吊るされた瞬間、盛大に咳をしてしまったのはわたくしです。申し訳ございませんでした。
あの瞬間、ペリーの、この世への愛惜と悔恨、そしてカポーティの、ペリーに対する愛惜と悔恨、その他言葉にならぬ諸々の感情がいっぺんに胸に押し寄せて来て、息が詰まったのでございます。

映画『カポーティ』は、『ティファニーで朝食を』などで知られる作家トルーマン・カポーティが、文学史上に残る傑作『冷血』を完成させるまでの数年感をつづったものです。ごく押さえられた演出で、見かけはあくまで淡々と。しかし同時に、悪が生まれ、それが実行されるさまをつぶさに描いた、むしろ凄絶な物語でもあるのです。
殺人犯ペリーが捕われた「暴力」という悪。否、それよりも、カポーティが我知らず捕われた「エゴイズム」という悪の物語です。



華やかなパーティに明け暮れる人気作家カポーティ。ある日、片田舎の町で起きた一家4人惨殺事件の記事に興味を引かれ、幼なじみで作家志望のネル・ハーパー・リー(「アラバマ物語」の作者)を伴って取材へと赴きます。
舌足らずの甲高い声で話し、なかなかに鼻持ちならない態度のゲイの小男に、田舎町の人々は冷たい視線を投げ掛けます。その視線をひしひしと感じながらも、彼と違って「まとも」なハーパー・リーの協力と、彼自身の、人の心を捉えるたくみな話術によって、カポーティはしだいにより深い情報へと触れて行きます。

ほどなく、別の町で2人連れの犯人が逮捕されます。
当初は「犯人が捕まるかどうかはどうでもいい、事件が町の住人に与えた影響を知りたいんだ」と言っていたカポーティでしたが、犯人の1人でネイティブ・アメリカン・ハーフであるペリー・スミスの中に、彼にとってなじみ深い2つの感覚-----疎外感と深い孤独-----を見いだします。
この時から、作家の高揚と苦悩の6年間が始まるのです。

「例えて言うなら、僕とペリー・スミスとは同じ家で育ったようなものだ。ある日彼は裏口から出て行き、僕は表玄関から出たんだ」

不幸な少年時代を抱えた性的マイノリティであるカポーティ。
孤児院で育った人種的マイノリティであるペリ-・スミス。
共に、母親は彼らが子供の頃に離婚し、男性との遍歴を重ね、アルコール中毒に陥った末に自殺しています。
カポーティは、ペリーが首まで埋まっている強烈な孤独と疎外感を、単なる同情ではなく自らの体験として知っています。
その上で、この”共有する孤独感”を、ペリーから話を引き出すために利用します。

2人にいい弁護士をつけてやり、死刑執行を先に延ばす一方、ペリーが最も求めているもの即ち愛情を要所要所で小出しに与える、その手段とタイミングは絶妙です。さもあらん、カポーティ自身、身をもって知っているのですから。孤独で絶望に陥っている時に何が一番「効く」のかを。

作品を書き上げるために、いわば地獄に糸を垂らしてやり、すがりつくペリーを利用する。
その利己性をハーパー・リーやパートナーのジャック・ダンフィーはそれとなく指摘しますが、カポーティ自身は、彼の行為に醜悪なエゴイズムが含まれていることに、全く気付きません。
というのも、この画期的な作品を何としても書き上げたいという、作家としてのエゴイスティックな欲求があることも真実なら、ペリーへ寄せる共感や親愛の情もまた、人間カポーティとして嘘偽らざるものだからです。

劇中のカポーティはいろいろな場面で「僕は嘘なんかつかない」と何度も口にします。
嘘はない、しかし、作家カポーティと人間カポーティの間に、大きな矛盾があるのです。
その矛盾はのちにあらわになり、激しいジレンマとなってカポーティを襲います。

ペリーの話しをもとに書き進められる『冷血』は、雑誌掲載時から大好評を博します。
しかし獄中のペリーに、カポーティは言い続けます。まだ何も書けていない、タイトルすら決まっていない、君が事件の夜のことを話してくれないんだもの、書きようがないだろう?・・・
4年に渡るインタヴューの間、ペリーは、カポーティがどうしても聞き出したい「あの夜」のことについてだけは固く口を閉ざしていたのです。

作家は賭けに出ます。
君がどうしても嫌なら、あの夜のことは話さなくてもいいよ。僕は君と友達になりたかっただけなんだ・・・
最後の一押し。心を許したペリーは、とうとう語り始めます。

あの夜、子供の頃から少しずつ彼の心に溜まって行った「悪」が、見ず知らずの一家を惨殺するという恐ろしいかたちで発露するに至った、その経緯を。

「あの人に手出ししたくはなかったんです・・・あの人たち(被害者のクラッター一家)はおれを傷つけたりはしなかった。ほかのやつらみたいには。おれの人生で、ほかのやつらがずっとしてきたみたいには。おそらく、クラッター一家はその尻拭いをする運命にあったってことなんだろうな」『冷血』p546 佐々田雅子訳 2005 新潮文庫

こうして肝心かなめの「あの夜のこと」までも、作家の手に入りました。『冷血』が空前の傑作になることは、もはや保証済みです。
ここに至って、ずっと無視されてきたあの矛盾がカポーティに牙をむきます。

作品が完成を見るには、当然、結末が書かれねばなりません。
そしてこの場合の結末とは即ち、主人公である犯人2人の死刑執行に他なりません。

癒しがたい孤独を共有する人間として、ペリーに愛情を抱きながらも、作家としてはこの「友人」を冷徹に利用しつづけたカポーティはついに、作家として、「友人」の死を望まねばならない所まで来てしまったのです。
それと知らずにカポーティが振るっていたエゴイズムという剣は、今さら鞘に収めることもできず、今やカポーティ自身を切りさいなみます。

「結末を書きたいのに、結末が見えない」
ほとんどノイローゼ状態のカポーティ。面会に行くこともなくなり、上告のための弁護士を見つけてほしい、というペリーの手紙には「残念ながら見つからなかった」と即答します。
それでも2人が上告して、死刑がさらに延期されると「彼らが僕を苦しめる」とはなはだ身勝手な文句を垂れます。最初の判決のあと、数週間で執行される予定だった2人の死刑を今まで先延ばしさせたのは、他ならぬ彼自身だというのに。

先には利用し、今ではその死を祈っている。
人の命をもて遊んではばからないエゴイズムに、カポーティ自身はまだ気付きません。あるいは、意識的に目をそらし続けます。死刑執行の、ほんの数分前まで。

最後の最後になってカポーティは、2人の死刑が確定して以来ずっと避けてきたこと-----2人との面会へと赴きます。
あと数分で絞首台からぶら下がる「友人」を前にして、カポーティは取り乱します。
愛情を抱きながらも、むしろ作品のソースとして利用したこと。
友人顔で2人の刑死を先延ばしにした末、結局はそっと後押ししたこと。
彼自身のなしたもはや取り返しのつかない「悪」。その帰結が、拘束具に縛られた2人の姿となって、作家の前につきつけられます。

涙を抑えることができない「友人」カポーティの姿とはうらはらに、彼の口をついて出たのは「作家」カポーティの言葉でした。
「できるだけのことはやった。・・・・・本当だ』



2人の死刑が執行された翌年の1966年1月、『冷血』は出版されました。
「ノンフィクション・ノベル」という新たなジャンルを文学界に作り出し、今なお読み継がれるこの作品は、出版後の4カ月間に毎週5万部を売り、25カ国語に翻訳され、つまるところ「出版界における最大の成功に数えられる」大ベストセラーとなりました。

『冷血』発表ののち18年間、カポーティは一冊の本も完成させることなく、
鬱病とアルコール中毒に苦しんだ末、58歳で世を去りました。


映画はあくまでドライな描写を保ち、最後まで、カポーティに対してとりわけ糾弾も同情もあらわに示すことなく語られます。
それ故にかえって、カポーティやペリーや、その他の当事者の語られぬ感情が、スクリーンから自然にしみ出して来るような心地がいたしました。
実に秀作でございました。