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『Closer to the Moon』の背景

2014-06-12 | 映画
前回の記事の最後で、マーク・ストロング主演の新作映画『Closer to the Moon』をご紹介しました。実際にあった銀行強盗事件を下敷きとしたお話ということですので、今回はその事件について取り上げようと思います。

以下の情報はおおむねWikipediaのNational Bank of RomaniaおよびIoanid Gangの項に基づいております。

1959年7月28日、ルーマニアの首都ブカレストで、国立銀行の輸送車が6人の武装集団に襲われ、現金160万レイが奪われます。この金額は当時の米ドルに換算すると25万ドル、円に換算すると9千万円となります。
事件の捜査にあたった同国の秘密警察「セクリタテア」は2ヶ月の間に容疑者たちを逮捕。夜間の急襲によって逮捕された6人はアレクサンドルとパウルのイヨアニード兄弟をはじめ全員ユダヤ人であり、独裁政権であったルーマニア共産党における幹部や党員でもありました。6人の誰1人として、事件の目撃者(とされる人々)から直接にこの人物だと同定された者はいなかったものの、裁判によって全員に死刑判決が下されます。
翌1960年、政府はこの銀行強盗事件を題材とした党員向けのプロパガンダ映画「Reconstituirea(=Reconstraction)」を公開。映画の中では強盗犯を演じていたのは俳優ではなく、イヨアニード兄弟ら自身でした。
死刑囚である彼らが本人役で映画に出演するというグロテスクな企画に協力したのは、減刑を期待したためであったと考えられますが、その年のうちに、6人のうちただ1人女性であったモニカ・セヴィアヌを除いてみな処刑されます。彼女は母親であったため終身刑に減刑され、1964年に恩赦により釈放されたのち、1970年にイスラエルに移住しました。

以上がこの事件の表向きの顛末でございます。
表向き、と申しますのは、この「顛末」には、今も解消されない矛盾や疑惑がいくつもあるからでございます。

まず、当時のルーマニアは秘密警察が跋扈し、盗聴や密告が日常茶飯事の監視国家であったことから、6人ものグループが誰にも知られずに強盗の計画を立て、実行に移すというのは非常に難しいことでした。容疑者の1人は事件に先立つ数ヶ月の間、自分がセクリタテアによって尾行されている上、自宅向かいの建物から監視されていることに気づいておりましたし、6人の電話はやはり事件の数ヶ月前から盗聴されておりました。上に名前を挙げましたアレクサンドル・イヨアニードは自身がセクリタテアの幹部でしたから、国家による水も漏らさぬ監視体制を知らなかったわけがありません。

動機も矛盾しております。容疑者たちはイスラエルのシオニスト団体に送金するために強盗を働いた、というかどで訴追されましたが、当時ルーマニア・レイは世界のどの通貨にも換金できませんでした。つまり外国に送った所でしょうがないお金であったわけです。一方、容疑者らが犯したとされる他の様々な罪状は、イデオロギーに関するものばかりで、いずれも強盗事件とは関係のないものでした。
ちなみにそうした罪状のひとつに、セクリタテアの長官であったアレクサンドル・ドラギーチの暗殺計画がありました。アレクサンドル・イヨアニードは、上司にあたるドラギーチの妻の妹と結婚しておりましたが、事件の少し前に離婚しており、そのためにドラギーチの恨みを買ったという説もあります。

事件後、容疑者たちは奪った金で贅沢三昧を楽しんだということになっておりますが、この時代のルーマニアにおいて、派手に金を使って当局から睨まれずに済むわけがないというのは、誰しも分かっていることでした。なんともおかしなことに、映画の撮影時には「贅沢な暮らしぶりを再現」するために、撮影現場である容疑者の自宅に、わざわざ家具や絨毯やカーテンを運び入れなければならなかったのです。つまり、実際は贅沢な暮らしなどしていなかったということです。容疑者の1人であったイゴール・セヴィアヌだけは事件の後で金回りがよくなったようですが、これは事件当時、容疑者の中では唯一無職であった彼に、当局が金を掴ませたためではないかとも疑われております。

以上の矛盾点、および当時のルーマニアにおける冤罪の多さから、この銀行強盗事件は当局による自作自演だったのではないかとの推測が成り立ちます。考えられる目的はいくつかあります。

・政府によるセクリタテア幹部のパージを正当化するため。(事件を速やかに解決できなかったかどで、担当者を罷免できる)
・政府や党の高位からユダヤ人を排斥するため。
・処刑されたと偽って5人の履歴を消し、海外でエージェントとして活用するため。

容疑者は秘密警察幹部の他、ジャーナリスト、歴史学教授、物理学者というインテリ揃いで、全員が自国の状況をよく認識していたであろうこと、そして家族の証言や当時の政治状況から鑑みて、容疑者たちが家族の安全を質に脅迫されていた一方、犯行を認めるのと引き換えに、減刑や国外への移住を約束されていたという見方もあります。(その場合、政府側の約束は果たされなかったことになるわけですが。)
強盗事件の直後、ルーマニア国外に出ることさえも難しい時代であったにも関わらず、セクリタテア幹部の1人であったユダヤ人で、容疑者たちの「友人」とされている人物が、家族とともにブラジルに移住するというたいへん稀なことが起きていることから、この人物は容疑者たちと政府との連絡役であり、その報酬として移住を許されたのではないかという説もあります。


とまあ、これが「共産圏で最も有名な銀行強盗」とされる事件の概要であり、この事件に基づいた映画が『Closer to the Moon』でございます。マーク・ストロングが演じるマックス・ローゼンタールは「警察幹部」といいうことですから、おそらくアレクサンドル・イヨアニードをモデルとしているのでございましょう。実際の事件は喜劇的とは言い難いものですが、映画の方は「ブラックジョークのきいたコメディ・ドラマ」と紹介されておりまして、あまり身構えずに楽しめる作品となっているようです。
今のところ、評判も上々。予告編を見るかぎりソーターさんは文句なくカッコいいことですし、今後の拡大公開が待たれる所でございます。
ワタクシの目下の最大の懸念は、超有名ってわけでもない俳優陣と超有名ってわけでもない監督によるルーマニア映画が、果たして日本で公開されるのかという点でございますの。...