のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『アンドレアス・グルスキー展 』

2014-04-24 | 展覧会
ジョディ・フォスターが同性婚なさったとのこと、おめでとうございます。
メル・ギブソンのコメントが聞きたい所ですな。

それはさておき
国立国際美術館で開催中のグルスキー展へ行ってまいりました。

ANDREAS GURSKY | アンドレアス・グルスキー展 | 東京展 : 2013.07.03-09.16 / 国立新美術館 | 大阪展 : 2014.02.01-05.11 / 国立国際美術館

巨大な作品ばかりかと思いきや、モチーフもサイズもコンパクトなものも展示されておりました。
例えば、初期の作品である『ガスレンジ』

対象に近づき、意味や文脈を排されたただの「もの」、そしてそこにある美を、黙々と写し取ったミニマルさがたまりません。
この即物的な美への視点は保ったまま、グルスキーは以降おおむね対象から引いて行く方向に進んで行くわけでございまして、引いて引いてひたすら引いたカメラによって捉えられた光景はその規模のあまりの大いさや密度、そして人工的な規則性ゆえに、ものによっては抽象絵画と見まごうほど「現実離れ」した絵となっております。

『ベーリッツ』

『バーレーン』

『香港、上海銀行』

その画面と対象の巨大さ。振り返って私たちはいったい何という世界で暮らしているのだろう、とあきれかえる一方、その大きさゆえに、かえって世界の一部分を写真で切り取るという試みの無謀さが表現されているようでございました。
見る人によっては、そこに何か社会的なメッセージを読み取ることも可能ではありましょう。しかしモチーフが証券取引所の喧噪であれ、ピョンヤンのマスゲームであれ、大空港や大規模農場であれ、写真そのものがとりわけ批判やメッセージ性を発しているということはございません。
むしろ対象が何であれ、写真家の目にハッと飛び込んで来たものの構成的・色彩的な美を追求している作品群かと。画像の組み合わせとデジタル加工といういとも非報道的な手法を用いて作られた作品もあることですし、少なくとも写真家自身の最初の意図としては「社会的なものを撮影しよう」というのはなさそうでございます。

ときにワタクシは例えば『99 セント』や、以前にもご紹介した、同じくドイツのロレッタ・ルクスの作品のように、これは何か加工を施しているなと一目でわかるような写真作品は好きですが、『オーシャン』シリーズのように、素の記録写真のようにしか見えないものをデジタル加工によって作り上げるということには、あまり積極的な意味を見いだせません。こういう手法でしか実現できない画面であるということはまあ理解できますけれども、「写・真」ではないのかという裏切られたような気分が先立ってしまい、美しい絵として素直に楽しむことができません。頭が固いんでしょうかね。

ともあれ。
始めに申しましたように、展示作品の中には小ぶりなものもございました。サイズは小さくとも印象は強烈でございまして、とりわけワタクシが
心打たれたのはゴミ捨て場(『スラムドッグ~』に登場するようなものすごい規模のやつ)を写したこの作品でございました。

『無題 XIII』

種々雑多なゴミがあきれるばかりの密度で重なり合い散乱するさまと、その上に白く広がる空の対比が素晴らしく、ゴミ山という決して気持ちがいいとは言えないモチーフであるにも関わらず、作品としては部屋に飾っておきたいほど静謐な美しさを放っております。なんかポロックのドリッピング作品みたいな写真だなあと思って振り返りますと、ちょうど向かいの壁にはポロックのドリッピング作品を写した大判の作品が展示されておりました。

さて、写真そのものにはメッセージ性はなさそうだと申しておいてナンではごいざいますが、山をうねうねと切り開いて作られた道路に小さな点としか見えない人々が散らばるツール・ド・フランスの風景やら、人とモニターと散らばる紙くずが渾然一体となったシカゴ証券取引所の様子やら、ほどんど曼荼羅のようなスーパー・カミオカンデの内部の写真やらを見ておりますと、よくも悪くも「人類ようやるわ」とつぶやきたくなるのでございました。

そしてまた、なんかもうそろそろ滅びどきだよなあ、なんてことも思わずにはいられないこってございましたよ。