のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

岐阜県現代陶芸美術館2

2008-01-17 | 展覧会
1/11の続きでございます。

『中欧の現代陶芸』、こちらも大変面白うございました。
実用的な物、純粋なオブジェ、実用とオブジェの中間の物、社会的メッセージを強く打ち出した物、
カラフルな物、白に徹した物、抽象的な物、具象的な物などなど、さまざまございました。

中でも、ため息が出るほど端正なガブリエール・ハイン(オーストリア)と
シンプルで実用的でありながら遊び心を感じさせるヨハンナ・ヒッツラー(ドイツ)の作品がとりわけのろごのみでございました。

ところでこのヒッツラーという姓、もしかしてHitlerの間にzを入れて改名したんだろうか?と思うではございませんか。
のろは常々ヒトラーとかヒムラーという姓の人たちは第二次世界大戦後、
このあまりにもイメージの悪い名前をどうしたんだろう?と思ってもいたもので、ちとネットで調べてみました。
同じことを考える人はいるもので、”教えて!goo”でもドイツ版語の”Yahoo!知恵袋”でも
「ヒトラーっていう姓の人はもう存在しないの?」という質問が上がっておりました。
それへの回答によりますと「戦後ドイツ憲法ではヒトラー姓を名乗ることを禁じている」(goo)
「そもそもヒトラーという名前がマイナーである」(goo)
「ほとんどのヒトラー姓は戦後に改名した」(yahoo)とのことでございました。
まあ改名したというより、そもそも同じ名字のバリエーションなのかもしれませんね。
加藤さんと嘉藤さん、橋本さんと橋元さんみたいな感じで。

閑話休題。
陶芸でございます。
そもそものろが京都から多治見まで足を運んだのは、日曜美術館の「アートシーン」で紹介された
この作品に会いたいがためだったのでございます。


シュランメル・イムレ 「座るミノタウルス」

↑チラシの小さな写真を拡大したのでちと画像が悪うございます。

ミノタウルス、ギリシア神話に登場する半人半牛の怪物でございますね。
しかし高さ20cm程のこの像に現されたミノタウルスは
怪物と呼ぶにはあまりにもつつましく、寂しげに座っております。

肩を落とし、右手をそっと地面につけ、牛頭をかしげて何事かをじっと考えているミノタウルス。
正面から見ると単に倦んで自然に座り込んだポーズのようでもありますが
像の背後に回ると、背中の筋肉が痛々しく緊張していることが分かります。
たくましい両肩を不自然なほどにきつくちぢめて、身をよじるようにして座っているのでございます。
あたかも自分の大きな身体を、できるだけ小さな空間内に押し込もうと努力しているようでございます。

迷宮に閉じ込められ、生け贄として投げ込まれた青年たちを喰らって生きるミノタウルス。
光の届かない迷宮の冷たい床に、ひとり座りこみ、考えます。

「どうして生まれてしまったのか?」


役者にミノタウルスを選んでいる所がよろしうございますね。
放心と集中とが一体となった表情で、座り込み、考える。
これを人間にやらせてしまうと、何と申しますかねえ、妙な崇高さがつきまとってしまいます。
即ちロダンの「考える人」がそうであるように
見る者の心に「こうやって自分の存在意義を考えることのできる”人間”ってのはやっぱり高尚だよなあ、
人間は知的な生き物なんだよなあ」と、人間という種の自尊心をくすぐる感覚を
呼び起こさずにはいないこってございましょう。

いえ、ワタクシは何も「考える人」をおとしめるつもりは毛頭ございません。
あの作品は一種の人間讃歌であって、あれはあれで大変いいものでございます。
あちらが自らの内に秘めた可能性について考える、人間の知的側面にフォーカスしているのに対し
この「座るミノタウルス」は、存在していることの所在なさと
「なぜ存在しているのか」という答えの無い問いの方にフォーカスした作品であろうと思います。

そして人間ではなくミノタウルスという怪物に託することで、この問いはいっそう混じりけのない
切実なものとして、見る者の心に訴えるのでございます。
誰にも望まれずにこの世に生を受けた怪物、あらゆる人から疎まれて生きるこの怪物が
こんな表情で熟考することといったら
「生きていていいのか、いけないのか?何のために生きているのか?何のために生まれたのか?」
ということ以外に、いったい何がございましょうか?

作者のシュランメル・イムレ氏、調べてみますと
量感のあるヌード仮面をつけた人物像を多く制作なさっているようでございます。
本展に展示されていたのは2点だけでございましたが、ぜひもっと多くの作品とお会いしたいものでございます。


前回レポートいたしました「前衛陶芸の諸相」とあわせて概括いたしますと
ダイナミックな動きや繊細な表情、優しさや毒々しさなどなど
陶という素材の多彩な側面に触れることができ、大変充実した展覧会でございました。

ああそれなのにそれなのに
お客さんが少なすぎます、あまりにも。
少ないと申しましょうか、館内にいた2時間半の間、のろが出会ったお客さんはたった2人(1組)。
平日とはいえ、すでに学校は冬休みに入っておりましたのに。(行ったのは去年の年末なんでございます)

おまけに、入場料が大人一人320円という激安っぷりはこれいかに。
片方320円じゃございませんよ。両 方 で、でございます。
そりゃあ安いに越したことはございませんけれども、これで経営大丈夫なんだろうか?と心配になります。
岐阜県美術館などはすでに高校生以下の入館を無料にしているそうで
この現代陶芸美術館もそうするつもりでいらっしゃるらしいのですが
大丈夫なんでしょうか。潰れちゃいやですよ。ほんとに。
しかしこうしたことに踏み切るからには、おそらく単に行政による支援をあてにしているのではなく
みなさんが来てくれる、という信頼と、それだけ集客力のある、魅力ある展示をしてみせる、という
熱い気概が美術館にあるからでございましょう。

皆様、美術館へ行こうではありませんか、美術館へ。