ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

大竹まこと ゴールデンラジオ(3/28)1

2022-03-31 18:10:00 | メディア
甲斐さんのソロデビュー35周年記念ベストアルバムリリースと
ビルボードツアーのプロモーションが始まったみたいで
Eテレ「SWITCH」に続くメディア露出なんですけど
近々に「LEGENDS」と「セイヤング」のオンエアが控えておりますので
長年、奥さんの悲願だった(笑)「SWITCH」ご出演については
また後日、ゆっくりと書かせて頂くとして…(笑)

もう甲斐さんご自身も、何度目のゲスト出演か覚えておられないくらい(笑)
慣れ親しんでいらっしゃるであろう「ゴールデンラジオ」ですが
ただ、アシスタント役の日替わりレギュラーの皆さんは毎回のように?変わっていらして
今回は、月曜日にご出演ということで、阿佐ヶ谷姉妹のお二人とご一緒だと知り
奥さんは思わず、番組冒頭から聴き始めたらしく(笑)ボクも右にならえ状態に…(苦笑)

大竹さんに続いて、阿佐ヶ谷姉妹のお二人が名乗られる際に
森山直太朗さんの「さくら(独唱)」をアカペラで歌い始められ(笑)
まずは、桜とお花見の話からスタートして、前日に千秋楽を迎えた大相撲の話題へ…
「甲斐さんもお話に参加されたいんじゃないかな?(笑)」と思いながら聴いていたら

ある力士が、シメコミの中の「居ずまい(笑)」を正すためか?まわしを気にする仕草を
「3回やってました(笑)」と大竹さんがおっしゃったことから
美穂さんも「食い込んじゃった時にね」と下着の話になり(笑)
「どんなパンツ履いてるか知りたくない!美穂さん、結構ですから!(笑)」と大竹さん(笑)

そして、阿佐ヶ谷姉妹のお二人のお金の使い方にクレーム…って
いつもプレゼントしてくれるお茶は「もっと高くてもいいんだよ?」とか(笑)
バレンタインデーは、いつもサバ缶ばかりだけど「カニ缶とかシャケ缶にしてよ!」とか…(笑)
さんざん話された挙げ句「いつものように下らないオープニングだね、どうしようもないね」と…(笑)

ここまでで、ざっと20分…そのあとコロナに関するコーナーが10分余り
そして、番組開始から34分…「本日のメニュー」として
放送内容と、そのおおよその時間帯が発表され
「2時24分頃からの『大竹メインディッシュ』のコーナー」は

今週は、文化放送開局70周年の記念ウィークにあたるため
文化放送の番組にゆかりのある方々がゲストに招かれるらしく
この日は「2001年から『セイ!ヤング21』を担当なさっている甲斐よしひろさんがゲスト」とのことでした

そして、その予定よりも5分遅れの2時29分…
江里子さんが「ゴールデンラジオのメインコーナー『大竹メインディッシュ』
本日のお客様は、甲斐よしひろさんです!お願い致します」とコールされ
「こんにちは!よろしくお願いします!」と甲斐さんご登場♪

大竹さんが「えー、今回は文化放送開局70周年!
えー、甲斐さんは、この局でどんな番組を担当しました?」とお訊ねになると
「僕、あの…23の時に『セイヤング』を2年くらいやったじゃないですか、確か…
だから、45年くらいは、この局に貢献させられてる(笑)」と甲斐さん(笑)

「それ、イヤな言い方ですね(笑)『貢献させられてる』?(笑)
そう、23の時に始まった?スゴイね」という大竹さんの返しに
「23,4…ですかね?で、それも、その当時ムチャムチャ(仕事が)デキる
渡辺勲っていうディレクターから指名されて、や(ることにな)って

当日(スタジオに)行ったら、その人が他の部署に行ってて…(『アレ!?』と大竹さん(笑))
アナウンサー上がりのキビし~いディレクターからですね
もう延々、指導が…貢献させられました!(笑)」と、お馴染みのエピソードを披露なさると
大竹さんも「その辺が『貢献させられた』になる訳ね?(笑)」とナットク(笑)

ちなみに…渡辺ディレクターは、ミキサーとして技術部に入社されたにも関わらず
たった2年で、社内では異例の制作部への異動を命じられた方だそうで
神田共立講堂の甲斐バンドライブで、岩崎宏美さんの「ロマンス」を歌われた甲斐さんに
「こんなミーハーな面もあるのか」と驚かれ
「セイヤング」のパーソナリティにお選びになったものの

「純粋音楽番組」というよりも、甲斐さんのキャラクターとトークを中心にした番組には
「洋楽志向の音楽型ディレクター」は合わない…といった判断のからか?
それとも、やはりその手腕を買われてか?編成部へ異動となり
3年後…甲斐さんが「セイヤング」を降板なさったあと…に制作部へ復帰されたみたいです(苦笑)

ともあれ…「僕、でも…でも、あの…アレですよ、デビューする前も、もう文化放送に関係してて…
『ハッピー・フォーク・フェスティバル』っていう
アマチュアの全国フォークコンテストみたいなのがあって、それ、僕、優勝したんですよ
で、それも文化放送で全部…文化放送が主催で、放送もやってて…

それで、当時、優勝賞金が30万くらいで…
あのー、中野サンプラザでやるんですけど、一番上に、もうデッカい楽屋があるんですよ
全国みんな…あの…全国から来た人、出てる人がこう…(全員)そこにいるくらい…
そのグランドピアノの所に陣取ってて…で、優勝して、その優勝賞金30万をメンバーで
『ハイ、1万』『キミ、1万』『ハイ、1万』って分けてたんですよ
あの…ナンか、ギャングが関わってる売人みたいな(笑)そんな映画みたいな…(笑)

そしたら、ムチャムチャ…担当ディレクターが、首根っこ押さえて
『お前!何やってんだ!』って言って…(笑)
もう、僕は『いいんじゃないかな』って…だから、イヤー、全国から来た人たちにね
あの…『世の中は弱肉強食なんだ!』って言って、教えようと思って(と説明したら)
『お前が教えなくていい!』って言われて…(『怒られちゃった?(笑)』と美穂さん(笑))
そう!ビッグバツです(笑)」と、鉄板ネタを披露なさってましたが(笑)

その「担当ディレクター」…KBCの岸川さんは、この「首根っこ」事件の前にも…
甲斐さん達が、コンテスト前夜に宿泊された旅館で
例年ならキー局が費用を負担していた冷蔵庫の中身を全てさらってしまわれ
「今年から支払いはローカル局」とお知りになって慌てておられたトコへ
甲斐さんが「優勝すりゃあいいんでしょう」とおっしゃったらしく激オコ(苦笑)

決勝本番前のリハーサルでは、甲斐さんが「モニターの音の回りがひどい!
これじゃあ本番が出来ない!」とPAスタッフの方に怒鳴っていらしたのをご覧になり
「お前ってヤツは…」と絶句なさったあとに
札束見せびらかし分配を目にされた訳で「首根っこ」を押さえたくなられたのもムベなるかなと…(笑)

それはさておき…甲斐さんが「まっ、その頃からずっと…
(文化放送に貢献させられてる(笑))」とおっしゃると
美穂さんから「お若いのに、そうやって…なかなか配れないですよね
でも、だから、大人でいらっしゃった」と褒められ?(笑)

「当時の僕らの30万、デカイですよね…(『そうだね』と大竹さん)
ギターまるまる…ギブソン1本買えるくらい、すごい値段ですけど…
ナンで、こんな話をしてるんでしょう(笑)」と返されたトコで
大竹さんが「イヤイヤ、それ、ナンで?ナンで?ナンで?
それ、配んなくちゃいけない訳じゃないんでしょ?ナンで?」と質問

甲斐さんが「イヤー、あのー、僕がソロだったんですよ
ですけど、バックメンバーがいて、4人…
で、あの…優勝したら、みんなで分けようねって言ってたんで…
(他の出場者の)みんなの…みんなの目の前で分けた方がいいんじゃないかと…
『力があれば、こんなことが出来るんだよ』っていう…(笑)」とお答えになると

「まあ、そういう意味合いもあるんだ?(笑)」と大竹さん(笑)
「そういう意味合いだけですよね(笑)」という甲斐さんの言葉に
「みんなで分けるって、ナンか…ナンか、いいじゃないねぇと思うけどね」と返されてましたが
イヤイヤ、問題は「分配」そのものじゃなくて、これ見よがしに…ってトコですよね?(笑)

それはさておき…「そうですね、そうです!
…とは言っても『半分は僕ね』って、最初から決まってました」と甲斐さん
「それ、幾つん時?」という大竹さんの質問に「それは二十歳ですね」とお答えになると
大竹さんは「二十歳!?デカイねー!二十歳で30万って…
でも、みんなで…半分は僕でも、残りは配るって、結構太っ腹じゃない?」と…(笑)

そう言えば、同じフォークコンテストに出場なさった
妙安寺ファミリーバンドのリーダー・門田一郎さんは
コンテスト直前に脱退されたメンバーの方が、その後も楽器の運搬など
裏方の仕事の手伝いを買って出て下さる姿に
「いつまでも我々バンドのメンバーなのである」とおっしゃっていたのに

コンテスト第2位の賞金20万円をメンバー6人で分配なさる際に
「1人あたり3万円、当時の1ヶ月分の生活費である
もう1~2人、バンドを辞めさせようかなあ…などと欲に目がくらむ」とお考えになったようです(笑)
まあ、それくらい「大金」だったってことですよね?(笑)
もっとも、3万円×6人で18万円、余った2万円は
脱退されたメンバーの方にお渡しになったみたいだけど…(笑)

それはともかく…甲斐さんは「あの…ギターの支払いがあったんで、僕…(笑)」と
ご自身の取り分が、賞金の「半分」だった理由を説明なさってましたが
このコンテスト終了後、大森さん、長岡さんと共に、岸川さんに付き添われて

あの「九州最後のスーパースター」という甲斐バンドのキャッチフレーズの生みの親でいらっしゃる
西田四郎さんと、そして後のマネージャー・武石さんと初めてお会いになり
賞金の使い道を訊ねられた際にも「楽器を買った借金を返す」とおっしゃっただけで
あとは「ドラムをナンとかしたい」と、バンドを結成し、プロの道へ進むための
あれやこれやばかり話されていたんだとか…

ともあれ…「昔…考えたら『月賦』って言ってましたもんね」と洩らされた甲斐さんの一言に
大竹さんが「ああ、そうだね!月賦…マルイで月賦…冬まで払うサーフボードの金!(笑)
訳わからん!(『そうです!そうです!…冬まで払うの?(笑)』と甲斐さん(笑))
うん、ずーっと払ってるっていう…すでにサーフボードもなくなって
ブームも去ってるのに…(笑)」と食いつかれたことに大笑い(笑)

あっ!申し遅れましたが、阿佐ヶ谷姉妹のお二人も笑い声やコメント…
それも時折、ユニゾン(笑)…で、会話に参加なさっていたんですが
全ては拾い切れませんので、割愛させて頂いております。あしからず…m(__)m
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ヒットソングを創った男たち5

2022-03-30 15:15:00 | メディア
さて…「長岡さんは、80年代後半以降、アーティストものと並行して
映画音楽のお仕事も開始されます」と振られ
「斉藤由貴さんの主演映画を作っていた東宝から
主題歌の制作を依頼されたのがきっかけですが
ある時、大森一樹監督から『映画の中の音楽も作って下さいよ』と言われましてね
『判りました』とは言ったものの、映画の音楽ってすごく難しいんですよ

私が作って来たのはポピュラーな音楽なので、どうしてもメロディが立ってしまう
でも、それは映像の邪魔なんです」…と、これは、脚本家の山田太一さんが
ご自身のドラマに甲斐さんの曲を使いたいと思われても
甲斐さんの曲は映像的で、その世界が完結しているから
「ドラマの方が負けてしまいそうだ」とおっしゃったというエピソードに似てますよね?

「映像音楽というのは、作品によっては40曲くらい作る場合もありますけど
その内、1~2曲が耳に残ればいい
その2曲を立たせるために、他の曲を伏線として作ったり
時には、音楽の存在に気づかないような、目立たない曲を作らなきゃいけなかったりする訳です
慣れない内は、それがどうしても上手く行かなくて苦労しました」と長岡さん

「90年代以降は『ラストソング』(94年)や『リング』(98年)、『らせん』(98年)など
話題の映画やアニメ音楽のプロデュースも多数なさっています」との言葉に
「『優駿ORACION』(88年)という映画の主題歌を担当した時
監督の杉田成道さんに、甲斐バンド時代の話をしたら
『面白いね。そのバンドの話を映画にしたいな』と言われたことがあるんです

そうしたら本当に『ラストソング』(94年)という映画になってしまって…(笑)
『ラストソング』では、吉岡秀隆くんが歌う
同名主題歌(94年1月/作詞・作曲:吉岡秀隆)の他に、劇中音楽も担当したんですけど
この辺りから、劇伴のコツを掴めたような気がしますね」と明かされてましたが

「ワガママでワンマンなリーダーが率いる九州出身のバンド(笑)」という設定に
甲斐さんが「俺は、あそこまでひどくない!(笑)」とおっしゃった
本木雅弘さん演じるバンドリーダーのキャラクターは
杉田監督の創造なさったものだとばかり思っていたら
元バンドメンバーの方の証言が元になっていたんですね(笑)

ちなみに…「天才ギタリスト」役でいらした吉岡さんから
ギター指南をお願いされた甲斐さんは、ご自身が左利きでいらっしゃるため
KAIFIVEの田中ヤッチさんにお任せになったという経緯もあり
KAIFIVEのメンバーの皆さんと共に、福岡ドームのこけら落としライブに出演なさる際に
「吉岡くんに、生のステージを踏ませたい」とゲストに招かれたそうだけど
ずいぶんと大きな場所での初舞台で、吉岡さんの緊張はいかばかりでいらしたかと…(汗)

ともあれ…長岡さんは「その後、私は映画部に異動するんですが
それは『スワロウテイル』(96年)という、ポニーキャニオンが出資した映画の音楽が
ソニーから発売されたことがきっかけなんです
『こういうことが起きるのは、映画音楽を作れるヤツがウチの映画部にいないからだ』
ということになって『長岡、お前が行って作れ』と…
制作部から映画部に異動して、初めて手がけたのが『リング』と『らせん』の音楽でした

…と話されてますけど、その「リング」のテーマソング決定の経緯や
試写会での女子高生たちの反応を参考に、劇伴や効果音の詳細を詰められたことなどは
「Happy Go Lucky!」で披露なさってましたよね?
そう言えば…長岡さんは「リング」シリーズの最新作か何かのプロモーションで
渋谷のスクランブル交差点を「貞子」の大軍が闊歩した(笑)というニュースをご覧になって
とても喜んでいらしたことを思い出しました(笑)

そして…「近年は『ショッピングモールの歌姫』として注目されている
半崎美子さんを手がけるなど、多くのアーティストにヒット曲をもたらして来た長岡さんですが
ヒットの条件みたいなものがあれば、お伺いしたいのですが…?」と訊かれて

「私はヒット曲よりも、みんなが『いいね』と言ってくれる曲を世に出したいと思ってやって来たので
『こうすればヒットする』みたいなことは言えませんが
ディレクターが周囲の声を気にし始めた時は、たいてい失敗しますよね

レコード会社にいた頃は、会社の幹部とか、アーティストが所属する事務所の社長とか
偉い人たちから色んなことを言われましたけど
そういう意見に左右されると、ヒット曲って出ないんです
むしろ、ディレクターの独断と偏見で決めて行った方が成功するような気がしますね
今、業績を上げている企業のトップはみんなそうじゃないですか」とお答えになってますが

確かに、机上の空論…とまでは言わないものの
リサーチ結果や数字だけを元に会議室で決まった方針よりも
現場で、街の空気を感じながら作業なさる方々の判断の方が的確かなあと…?
まさに「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてんだ!」って感じ?(笑)
まあ、だからこそ長岡さんは、数々の業績が認められ「取締役に…」とのお話が出た時に
「現場を離れたくない」と独立なさったんじゃないかと…?

「では、アーティストに求められる資質はいかがでしょう
これまでの経験から、こういう人が活躍しているという共通点はありますか?」と訊かれて
「やっぱり個性じゃないでしょうか」と長岡さん
「誰かによく似ていると言われる人は続かないですよね。1人いれば十分ですから…
きっかけは『誰それに憧れて』でもいいんですけど
プロとしてやって行くには、その人の個性がちゃんと出ていないと難しいと思います

あとは運。スタンフォード大学で運を研究している人が書いた面白い論文があって
それによると、自分の人生に影響を与える出会いというのは、用意されたものではなく
偶然から生まれることが多いらしいんです
大事なのは、その偶然に気づけるかどうか…
音楽活動は1人では出来ませんから、個性に加えて
偶然の出会いを引き寄せる運が必要なんじゃないかと思います」
…と、これも「Happy Go Lucky!」でおっしゃっていた持論で返され

「音楽プロデューサーに必要なものは何だとお考えでしょうか?」との質問には
「大事なのは好奇心だと思いますね
私は、人が集まっていれば『何してるの?』って、首を突っ込みに行くんですけど
そういう好奇心がなくなったら、プロデューサー以前に人生が楽しくない
毎日が楽しくなければ、良い音楽を作れないと思うんです

あとは、人との繋がりでしょうか。色々な人と関わる仕事ですから
先ほど言ったように、出会いを大事にしたいですし
有難いことに、仕事の関係がなくなっても
親しくお付き合いさせて頂いてる方が、いっぱいいるのは、自分にとっての宝ですね」
…とお答えになっていて、何気なく耳にしている1曲1曲には、アーティストだけじゃなく
その曲に関わられた方全員の力が込められているんだなと再認識致しました
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ヒットソングを創った男たち4

2022-03-29 15:24:00 | メディア
「斉藤由貴さんの7枚目のアルバム『TO YOU』(88年12月)まで
ほとんどの編曲を当時新鋭だった武部聡志さんが担当されていますが
それは長岡さんの考えに基づく起用だったんですね?」と訊かれて

長岡さんは「武部さんについては、同僚の太代真祐くんが担当していた
小林千絵さんの『水色のカチューシャ』(83年)を編成会議で聴いた時
『良いアレンジだなあ』という印象を持っていました

その後、小林麻美さんの『哀しみのスパイ』(84年)を聴いて
『このアレンジャーはすごい!』と思って調べたら『武部聡志』という名前で
そう言えば、小林千絵さんの曲も『タケベ』というアレンジャーだったなと思い出して
太代くんから武部さんの連絡先を教えて貰ったんです」とお答えになってましたが

甲斐さんが、ご自身のラジオ番組で、ボクの永遠のアイドル(笑)…「小林麻美っていうと
『雨音はショパンの調べ』って感じだけど、僕はこっちですね」と
「哀しみのスパイ」をおかけになったことを思い出しました
あの曲って、そんなに「通好み」な曲なんでしょうか?(笑)

ともあれ…「筒美京平さんに対しては、どういうアプローチをされたのでしょう?」との質問に
「斉藤由貴さんを担当することが決まった時
すぐに『先生と仕事が出来るアーティストを見つけました
是非、松本(隆)さんと一緒にやって頂きたいんです』とご挨拶に行きました

その後、3人で会った時に、由貴さんに何曲か歌って貰ったカセットテープをお二人にお渡しして
『これを聴いて頂いて、どの路線で行くのが良いかを次回相談しましょう』とお願いしたんです

そのテープには、原田知世さんの『時をかける少女』
松田聖子さんの『SWEET MEMORIES』と『夏の扉』
中島みゆきさんの『悪女』あみんの『待つわ』が入っていたと思いますが

10日後くらいに集まったら、お二人とも開口一番『待つわ』が良かったとおっしゃった
私も同じ意見でしたから『じゃあ、この路線ですね』と…
京平さんは『斉藤由貴は良いね。彼女は世の中を染めると思う』とおっしゃって

『このプロジェクトは松本くんの詞先で行こう
そうすれば彼は素晴らしい詞を書いてくれるよ』とアドバイスして下さったので
松本さんに『詞先で行きたい』とお願いしたら
松本さんは『先にタイトルを決めよう』と…

それで、松本さんのご自宅にお邪魔して、徹夜で話し合う内に
『初めてで最後のものが良いよね』ということになって
そこから『卒業』や『初恋』というタイトルが生まれた訳です」と返されると

インタビュアーの方は「デビュー曲の『卒業』(85年2月)だけでなく
3rdシングル『初戀』(85年8月)のコンセプトも、その時点で決まっていたんですね!」
…と驚かれてましたけど、アイドルに全く興味がなかった奥さんは

斉藤さんの6枚目のシングル「土曜日のタマネギ」をCMで耳にし
「ん?」と思っていたトコへ、甲斐さんが「サンスト」でこの曲を流され
長岡さんが斉藤さんを担当なさっていることを明かされた時から
俄然、斉藤さんに注目するようになったらしい(笑)

「4thシングル『情熱』(85年11月)も含めた、漢字2文字の3部作は
いずれも『作詞:松本隆、作曲:筒美京平、編曲:武部聡志』の座組みですが
筒美さんは、長岡さんだけでなく、武部さんとも、この時が初顔合わせだったと思います」
…というインタビュアーの方の言葉に

「京平先生が『僕はディレクターを選びます
自分の描きたい世界を理解してくれない人と仕事をしてもしょうがないから』とおっしゃっていたので
『長岡くんと仕事をしたい』と言われた時は嬉しかったですね

アレンジャーとして、武部さんの名前を出した時は、初仕事ということもあって
最初は心配されたようでしたけど、一緒にレコーディングして行く内に
『すごく良いね』と気に入って下さって…
曲作りに関する判断が的確で、すごい分析力をお持ちの方ですから
私にとっては勉強になることばかりでした」と振り返られ

「そう言えば、こういうことがありました
京平さんから『卒業』のデモテープを渡されて、武部さんと一緒に聴いた時
武部さんが『う~ん』と唸ったんです
彼に言わせると、イントロのピアノの運指が謎だったらしくて『これは普通、弾けないですよ』と…

イントロを弾いた時、音が繋がっているように聴こえないといけないんですが
それがピアニスト泣かせのテクニックらしくて、誰でも弾けるものではなかったんです
人によっては、右手と左手で弾く人もいるんですが
あの難しいイントロを右手1本で弾いた武部さんはすごかったですね
そういう課題を与えた筒美京平という人もすごいと思いましたが…」と明かされてました

更に…「詞先で制作された、筒美京平・松本隆コンビの作品といえば
太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』(75年)がありますが
筒美さんの予言通り『卒業』も、それと並ぶ名曲になりました」というインタビュアーの方の言葉に

「実は、松本さんの(卒業の)詞には、サビに入る前の『ああ』はなかったんです
歌入れの時に京平さんが『ここに「ああ」って入れてみようか』とおっしゃって
実際、入れてみたらすごく良くなって『これは良いですね!』と言ったら
『長岡くんに褒められちゃったよ』って、笑われたことを覚えています(笑)

五木ひろしさんの『よこはま・たそがれ』(71年)も、平尾昌晃さんの発案で
『行ってしまった』が『行って行ってしまった』になったと聞いたことがありますが
その方が絶対に耳に残る。さすがですよね」と返されてましたが

ボクは、甲斐さんが、西田佐知子さんに曲を提供なさって
そのレコーディングに立ち会われた際に、西田さん側からアドバイスを求められたものの
「いつも通りに歌って下さい」としか、おっしゃらなかったというエピソードを思い出しました

それまで職業作家の先生方とばかり、お仕事をなさって来た西田さんにしてみれば
レコーディング中に、歌詞やアレンジが変更されたり、先生方から注文が入ったり…が
おそらく?普通でいらしたんでしょうし、何もおっしゃらない「甲斐先生」に
ずいぶんと戸惑われたんじゃないかと…?(笑)

それはともかく…「『卒業』は、新人アイドルのデビュー曲としては破格のヒットでしたが
いきなり好セールスを上げたことで、口を出す人が増えたり
セールス的なノルマが課せられたりというようなことで
そのあとが作りにくくなることはありませんでしたか?」との質問に

「誰かに何かを言われた記憶はないですけど、元々、私はそういうのを聞かないタイプなので
仮に言われたとしても、自由にやっていたでしょうね(笑)」と長岡さん(笑)
「よく『会社のために』とか『利益を上げるために』という話を聞きますけど

私は『会社という組織は、適材適所で人員配置をしているだろうから
現場にいる我々は、自分のためになることを徹底すれば
それが会社の利益に繋がるはずだ』という考えなんです

そのためには、自分のやる気、モチベーションを維持しなくてはなりませんから
物事に対する好奇心を失くさないようにしようと、それだけは心がけてましたね」と話されたり

「斉藤さんは『卒業』以降もトップ10ヒットを連発
アルバムでは、チャート1位を獲得しました
ヒットメーカーになったことで、プレッシャーを感じる場面はありませんでしたか?」という質問には

「結果の評価をどこに置くかですよね。売上至上主義の人が多いですが
私は、ヒット曲よりも、名曲として残って行くような作品を作りたかった

制作部長も同じ考えで、事あるごとに『枚数は気にするな。良い曲を作れ』と言われました
上司に恵まれたんですね、私は…(笑)」とお答えになっているのが
やはり、元バンドマンらしい感じ…っていうか
常々、甲斐さんがおっしゃってることと通じるものがあるような気が…?(笑)
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ヒットソングを創った男たち3

2022-03-28 15:18:00 | メディア
「長岡さんは、その後も5年以上に渡って
石川(ひとみ)さんの制作に関わられています」というインタビュアーの方の言葉に
「ひとみさんがキャニオンを離れるまで担当させて貰いましたが
彼女との仕事を通じて、多くの作家やアレンジャー、エンジニアと知り合うことが出来たし
ディレクターとしての経験も積むことが出来ました

今も制作の仕事が出来ているのは、石川ひとみプロジェクトのおかげなんですが
心残りは『まちぶせ』のあとの展開ですね
私は『にわか雨』というオリジナル曲で行きたかったんですけど
渡辺プロの意向で『三枚の写真』になってしまって…」と長岡さん

インタビュアーの方が「『まちぶせ』に続けとばかり
同じ三木聖子さんが歌っていた作品のカバーでした」と補足なさると
「私は反対したんです。カバーでヒットしたからといって、次もカバーで行くのは良くないと…
でも『どうしてもカバーで行け』と押し切られて
『にわか雨』は2年間、寝かせることになりました」と振り返っておられましたが

「まちぶせ」のカバーリリースには反対だったのに、ものすごい手のひら返し…(苦笑)
まあ、甲斐さんも「裏切りの街角」がヒットしたあと
事務所やレコード会社から「同じ路線で行け」との指示があったとおっしゃっていたし
二匹目のドジョウを狙うのは、当時の歌謡界のセオリーだったんでしょうね?

「初めて担当したアーティストをいきなりブレイクさせた長岡さんは
谷山浩子さんや伊丹哲也さんなど、ヤマハ系のシンガーソングライターを担当する一方
実力派シンガー・松原みきさんの制作も手がけられています」と振られて

「松原みきさんは、私と同時期に入社した別のディレクターが担当していたんですが
諸事情で私が引き継ぐことになったんです
でも、当時の私は、彼女が志向していたジャズ的な音楽に魅力を感じていなくて
『ポップスを歌わなきゃダメだ』と無茶振りばかりして…
本人が描きたい世界を理解する力がなかったことを今でも後悔しています

そんな私が唯一『ジャズのスタンダードナンバーを本気でカバーしよう!』と言って
制作したのが『BLUE EYES』(84年10月)というアルバムですね
プロデューサーは稲垣次郎さん、アレンジは巨匠の前田憲男さん
ジャケットのデザインは、600万円かけてサイトウマコトさんにお願いしました

特色を使用していたので、刷るほどにお金がかかって、会社からはものすごく叱られました
ニューヨークのデザインコンクールで賞を戴いたほど素晴らしいジャケットだったんですけどね(笑)」
…と「Happy Go Lucky!」でも明かされていたエピソードを披露なさってましたが
そのジャケットともう1枚、長岡さんが手がけられたジャケットが
キャニオンレコードの新人研修で、いつも反面教師として紹介されていることには触れられず(笑)

「前田憲男さんとは、この時初めて仕事をさせて頂いたんですが、腰が抜けるほどすごい方でした
ベースの譜面にチョッパーの引っ掛けまで書いてあって、スタジオミュージシャンからは
『こんなの弾ける訳ないじゃん』みたいな文句が出ていたんですけど
前田さんがスタジオ入りした途端、空気がピンと張り詰めて、素晴らしいオケが録れました

その現場で、前田さんはMC4という、当時最新のデジタル・シーケンサーで
打ち込みをされていたんですが『その機械は何ですか?』と質問したら
『これで譜面を書くんだよ。今、勉強中なんだけど
セーブしておかないと、すぐにデータが飛んじゃうんだよね』って…
その姿勢にも頭が下がりましたね」と長岡さん

インタビュアーの方が「スタジオミュージシャンの背筋が伸びるという点では
筒美京平さんの現場もそうだと聞いたことがあります」とおっしゃると
「京平先生とは、松原みきさんの担当をしている時
日立マクセルのビデオテープのCMタイアップの話があって
作曲をお願いしに行ったのが最初ですね

その時は、お忙しくて断られてしまったんですけど
話をする中で『松本(隆)くんに書いて貰うのはどうなの?
彼なら、曲を書いてくれる人を探してくれると思うよ』と…
結局、京平さんから松本さんを紹介して頂いて
松本さんが細野晴臣さんに作曲を依頼してくれたんです」とお答えになってましたが
このインタビューに登場する方々のお名前が、超豪華でビックリです(笑)

ちなみに…「ビートルズ世代のプロデューサーにお話を伺うと
『5人目のビートルズ』と言われたジョージ・マーティンを通じて
音楽プロデューサーという職種があることを知ったという方が多いんですが
長岡さんが刺激を受けたプロデューサーっていらっしゃいますか?」との質問に

「私が一番影響を受けたのは新田和長さんですが
実は、ジョージ・マーティンとは、1時間くらい会話したことがあるんです
ロンドンのエア・スタジオで、斉藤由貴さんのアルバムのミックスをしていた時
スタジオの入口の所で、白髪のおじさんがずっと立っていましてね
ラフな格好だったので、清掃員のおじさんかと思って
『中で座って聴きませんか?』と声をかけたら
『ありがとう。彼女は素敵な声をしているね』と…

周りは現地のスタッフばかりで、通訳もいなかったので
由貴さんの曲を流しながら、訊かれた質問に片言の英語で答えていたんですが
いつもは賑やかなスタッフが、ナゼかシーンとしてるんです
『この音色はどうやって作ったの?』と訊かれたので『12弦を弾いたんです』って言ったら
『良い音だね。グッジョブだ』と褒められて…

『掃除のおじさんの割には、やけに詳しいな』と思ったんですが
あとで聞いたら、その人がジョージ・マーティンだったという(笑)
最後は握手して別れたんですけど、話してる間は全く気がつきませんでした」と返され
…って、もう、これ、リーサル・ウェポンでしょ?(笑)

甲斐バンドのデビュー前に、甲斐さんと福岡のスタジオで練習なさっていた時も
見知らぬ外国人たちに声をおかけになって、ご一緒に演奏されたのが
カーペンターズのツアーメンバーだったというエピソードといい
ご自身でおっしゃってる通り「好奇心旺盛」で
「人と話すことは大事」と思っておられるみたいですね?(笑)

ともあれ…「その(松原みきさんの)仕事は、それで完結したんですが、ある時
京平さんから『話がしたい』という連絡が入って、お会いしたら
『長岡くんは、松原みきさん以外には、どういう人を担当しているの?』と訊かれたんです

私は『今は、京平先生と一緒に作りたいと思うアーティストがいないので、しばらくお待ち下さい
これだ!と思った時は、真っ先に伺いますから』と言ったんですけど
その1年後くらいに巡り逢えたのが、斉藤由貴さんでした」と続けられると

インタビューの方が「現在に至るまで、斉藤由貴さんの全ての楽曲をプロデュースしていますが
担当されることになった経緯からお聞かせ下さい」とおっしゃって
長岡さんは「当時、担当していたフローレンスというハーフの女の子の
ジャケット撮影の打ち合わせで、野村誠一さんの事務所に行った時
『ミスマガジンで、こんな可愛い子がいるんだけど』って、由貴さんの写真を見せられたんですよ

『この子、歌うんですか?』って訊いたら『すごく良い声だった』というので
コピーを貰って会社に戻り、制作部長に報告しようとしたんです
そうしたら、制作部長から先に『長岡くん!』と声をかけられて
『フジテレビから聞いたんだけど、この子、知ってるかい?』と見せられたのが同じ写真で…(笑)

奇しくも2人同時に話が来た訳ですが
『これはもうやるしかないでしょう』ということで、すぐに企画書を書きました
企画書は2ページくらいのシンプルなものでしたが、アイドル的なキャピキャピした路線ではなく
役者の仕事が歌の仕事に繋がるような曲作りをします…ということを書いた記憶があります

その時点では、作家は決まっていませんでしたけど
かねがね、作家やアレンジャーがコロコロ替わるのは良くないと思っていたんですね
特にアレンジャーは、1作ごとに替える傾向がありましたから

『もし自分が担当したら、たとえ結果がすぐに出なくても
同じメンバーで、統一感のある世界を作って行きたい
腰を据えて、数年間はアルバムを作って、共に成長して行かなくてはダメだ』と考えていました」

…と話されてますが、この感覚は「元バンドマン」らしいと言いますか
目先のヒットよりも、担当なさるアーティストの将来まで視野に入れた
「チーム」リーダーとしての発想じゃないかと…?
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ヒットソングを創った男たち2

2022-03-26 15:19:00 | メディア
「アイドルからシンガーソングライター、アニメ、映画音楽まで
幅広いフィールドで活躍を続けるマルチプロデューサー」長岡和弘さんへのインタビューの続きです
「甲斐バンドは、11thシングルの『HERO』(78年12月)が
デビュー5年目で初のオリコン1位を獲得
所期の目的を達成した長岡さんは翌年、バンドを脱退されてキャニオンレコードに入社」
紹介されているんですが、その入社試験で原稿用紙4枚くらいの論文課題を出された際に…

「大学時代いちばん聴いていたのが、今でも大好きなCCR」と長岡さん
「私は、CCRの歌詞を対訳を見ずに、自分で訳していたんですね
特に『プラウド・メアリー』(69年)の歌詞は『人生とはこういうことだよな』と思わせる内容で
ただ対訳を眺めるよりも、よっぽど感動的だった(笑)
ですから『自分もこういう曲が作れるディレクターでありたい』と書いたんです」と明かされてます

そして…「希望の制作部には、すぐ配属されたのでしょうか?」との質問に
「ええ、入って3ヶ月くらいは見習いという形で
先輩ディレクターのアシスタントに就いていたんですが
制作の現場に行ったら、バンド時代にやっていたことと、あまり変わらなかったんですね
それで『これならすぐに出来そうです』と言ったら
『じゃあ、これからはお前が石川ひとみさんを担当しろ』と…

実は私、キャニオンに入社する時の面接で、当時の社長から
『担当したい歌手はいるのか』と訊かれた時、石川ひとみさんの名前を挙げて
『歌が上手いのに、どうして売れないのか判りません』って答えていたんですよ
そういう経緯があったので、担当に指名された時は
『意外と簡単に決まるものなんだな』と思いました(笑)」とお答えになってますが
そんな逆指名をなさっていたことにビックリ!?

「石川ひとみさんは、78年にデビューされていますが
長岡さんはどの時点で引き継がれたのでしょう?」と訊ねられ
「『秋が燃える』(80年9月)というシングルのレコーディングからです
この時はすでに作品が出来上がっていたので
私が一から作ったと言えるのは、次のシングル『夢番地一丁目』(81年1月)から…

甲斐バンド時代は自作の曲だったので、作家さんとの打ち合わせは初めてでしたが
渡辺音楽出版の良田性正さんにアドバイスを頂きながら作り込んで行きました
当時、大学周辺でフォーク喫茶がブームになっていたので、そういう所でかかる曲を作ろうと…
ガロの『学生街の喫茶店』(72年)を手がけた山上路夫さんに作詞をお願いしたのも
そういう狙いがあったからです」と返されてますけど

長岡さんが転身なさった当時のインタビューでも…「これまでの僕の立場とまるで違って
作詞家や作曲家に作品を依頼したりすることから仕事が始まるんです」と
「作家さんとの打ち合わせ」の他にも
「歌謡曲のタレントの場合だと、レコーディングのやり方もまるで違っていて
僕が歌唱指導したり、イメージ作りをしたりする訳ね」と
担当歌手のイメージ戦略を練ること…衣装合わせやジャケット撮影
プロフィールやコメントの作成などに立ち会うことも
ディレクターの仕事だとお知りになって驚いていらっしゃいました(笑)

ちなみに…「学生街の喫茶店」が大ヒットした翌年に
同じく「古くから学生街にある喫茶店」を舞台にした
あべ静江さんの「コーヒーショップで」がリリースされてますが
こちらは、当時のキャニオンの社長が、阿久悠さんのご自宅で作詞を依頼なさった際に
たまたま、スランプの相談におみえになっていた三木たかしさんに
阿久さんが「一緒に作ってみないか」と声をおかけになって誕生した曲だそうです

そういえば…デビュー当時の甲斐バンドのインタビュー記事で
「好きな女性タレントは?」という質問に
長岡さんが「あべ静江さん」とおっしゃっていたのは
あべさんが同じ「シンコーミュージック」の先輩でいらしたからでしょうね?(笑)
まあ、甲斐さんも、シンコーの福利厚生費で行かれた旅行の話をなさった際に
あべさんのことを「しーちゃん」と呼んでおられたし、ホントに近しい先輩だったのかも…?

それはさておき…
「石川さんは、その次のシングル『まちぶせ』(81年4月)がオリコン6位をマークする大ヒット
デビュー4年目で、ついにブレイクを果たします」というインタビュアーの方の言葉に…
「当初は、そのB面に収録されている『懐かしきリフレイン』をA面にするつもりでした
自分としては、一生懸命考えて作った曲なんですが
トラックダウンしたものを聴くと、今ひとつインパクトに欠ける

それで、岩崎良美さんの『I THINK SO』(80年)とか
キャニオンから出ている他のアイドルのシングルを聴いたら、すごく華やかなんですよね
『アイドル歌謡っていうのは、こういう所が違うんだ
作り直したいけど、時間も予算もないなあ』と悩みながら、色々と聴いていたら
その中の1つに、三木聖子さんが歌った『まちぶせ』(76年)があったんです

『さすがユーミン』と思って聴いている内に『待てよ』と…
三木さんとひとみさんは同じキーだし、2人とも渡辺プロの所属
ということは、渡辺音楽出版にマルチテープが残っていれば
歌だけ録り直してカバーするという手法もありじゃないかと思いついたんです
でも、渡辺プロに確認したら、有楽町から引っ越した時
マルチを処分していたことが判明して…(苦笑)

ただ、当時のマネージャーが持っていたカラオケのテープがあったので
まず、ひとみさんに歌って貰ったら、すごく嬉しそうなんですよ
それまでは、与えられた歌に対して『好き』や『嫌い』を一度も言ったことがなかったのに
この時は『この歌、大好きなんです。シングルになりませんか?』と私にだけ言って来た
それを聞いて私も彼女の初めての自己主張に応えたいと思った訳です」と話されてますが

「もういちど流行歌・まちぶせ」でご紹介しましたように
石川さんが高校時代に通われていた音楽学院では
ナベプロの新人歌手の曲が課題として出されていて
三木聖子さんの「まちぶせ」を与えられた石川さんは
「女の子の気持ちがそのまま歌詞になっていて『わかるわぁ〜』」と思っていらしたところへ

デビューなさって4年目、次の10枚目のシングルで
一度、区切りをつけて、ご自身を見直そうと決心なさった時に
長岡さんから示された何曲かのシングル候補の中に「まちぶせ」があり
「この曲じゃないとイヤです!これが歌いたい」と希望されたんだとか…

ともあれ…「結局、オケは録り直すことになったんですけど
松任谷正隆さんが、アレンジを快諾してくれて、演奏もオリジナルと同じ…
ドラムが林立夫さん、ベースが後藤次利さん、ギターが鈴木茂さん
パーカッションが浜口茂外也さん…ほぼティン・パン・アレーという
すごいメンバーでレコーディングすることが出来ました」と長岡さん

「当時のアイドルシーンで、過去にシングルとして発売された楽曲を
シングルA面としてカバーするのは異例のことでした
半年後に『ハロー・グッバイ』(81年/柏原芳恵)が続きますが、歌謡界にカバーブームを招来したのが
『まちぶせ』であると言えそうです」というインタビュアーの方の言葉に

「オリジナル盤が、6万9千枚だったものが
最終的に50万枚近いヒットになりましたからね
でも、発売までは、かなりの反対を受けました
渡辺晋社長からは『昔出したものをもう1回出すなんて』と言われましたし
原盤制作ディレクターは、別の曲を用意していたくらいですから…

それを私は『この曲は、いまだに人気があって
銀座の有線放送ではベストテンから外れたことがない』
…みたいな嘘を並べて(笑)必死に説得を続けたんですが
その内に賛同者が増えて来て、シングルA面にすることが出来たんです
でも、一番大きかったのは、本人が『歌いたい』という意思表示をしたことでしょうね
この曲がヒットしたおかげで、ひとみさんは自分の意見を言えるようになったと思いますし
それは私にとっても嬉しい変化でした」と振り返っていらしたけど

石川さんも「この曲のおかげで、歌の楽しさを思い出して、辞めるのはやめようと思った
私の心をさだめてくれた曲です」とおっしゃっていて
石川さんがこの曲に出会われたこと、長岡さんが石川さんを逆指名なさっていたことに
ちょっと怖いくらいの巡り合わせを感じてしまいました
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