ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

ヒットソングを創った男たち3

2022-03-28 15:18:00 | メディア
「長岡さんは、その後も5年以上に渡って
石川(ひとみ)さんの制作に関わられています」というインタビュアーの方の言葉に
「ひとみさんがキャニオンを離れるまで担当させて貰いましたが
彼女との仕事を通じて、多くの作家やアレンジャー、エンジニアと知り合うことが出来たし
ディレクターとしての経験も積むことが出来ました

今も制作の仕事が出来ているのは、石川ひとみプロジェクトのおかげなんですが
心残りは『まちぶせ』のあとの展開ですね
私は『にわか雨』というオリジナル曲で行きたかったんですけど
渡辺プロの意向で『三枚の写真』になってしまって…」と長岡さん

インタビュアーの方が「『まちぶせ』に続けとばかり
同じ三木聖子さんが歌っていた作品のカバーでした」と補足なさると
「私は反対したんです。カバーでヒットしたからといって、次もカバーで行くのは良くないと…
でも『どうしてもカバーで行け』と押し切られて
『にわか雨』は2年間、寝かせることになりました」と振り返っておられましたが

「まちぶせ」のカバーリリースには反対だったのに、ものすごい手のひら返し…(苦笑)
まあ、甲斐さんも「裏切りの街角」がヒットしたあと
事務所やレコード会社から「同じ路線で行け」との指示があったとおっしゃっていたし
二匹目のドジョウを狙うのは、当時の歌謡界のセオリーだったんでしょうね?

「初めて担当したアーティストをいきなりブレイクさせた長岡さんは
谷山浩子さんや伊丹哲也さんなど、ヤマハ系のシンガーソングライターを担当する一方
実力派シンガー・松原みきさんの制作も手がけられています」と振られて

「松原みきさんは、私と同時期に入社した別のディレクターが担当していたんですが
諸事情で私が引き継ぐことになったんです
でも、当時の私は、彼女が志向していたジャズ的な音楽に魅力を感じていなくて
『ポップスを歌わなきゃダメだ』と無茶振りばかりして…
本人が描きたい世界を理解する力がなかったことを今でも後悔しています

そんな私が唯一『ジャズのスタンダードナンバーを本気でカバーしよう!』と言って
制作したのが『BLUE EYES』(84年10月)というアルバムですね
プロデューサーは稲垣次郎さん、アレンジは巨匠の前田憲男さん
ジャケットのデザインは、600万円かけてサイトウマコトさんにお願いしました

特色を使用していたので、刷るほどにお金がかかって、会社からはものすごく叱られました
ニューヨークのデザインコンクールで賞を戴いたほど素晴らしいジャケットだったんですけどね(笑)」
…と「Happy Go Lucky!」でも明かされていたエピソードを披露なさってましたが
そのジャケットともう1枚、長岡さんが手がけられたジャケットが
キャニオンレコードの新人研修で、いつも反面教師として紹介されていることには触れられず(笑)

「前田憲男さんとは、この時初めて仕事をさせて頂いたんですが、腰が抜けるほどすごい方でした
ベースの譜面にチョッパーの引っ掛けまで書いてあって、スタジオミュージシャンからは
『こんなの弾ける訳ないじゃん』みたいな文句が出ていたんですけど
前田さんがスタジオ入りした途端、空気がピンと張り詰めて、素晴らしいオケが録れました

その現場で、前田さんはMC4という、当時最新のデジタル・シーケンサーで
打ち込みをされていたんですが『その機械は何ですか?』と質問したら
『これで譜面を書くんだよ。今、勉強中なんだけど
セーブしておかないと、すぐにデータが飛んじゃうんだよね』って…
その姿勢にも頭が下がりましたね」と長岡さん

インタビュアーの方が「スタジオミュージシャンの背筋が伸びるという点では
筒美京平さんの現場もそうだと聞いたことがあります」とおっしゃると
「京平先生とは、松原みきさんの担当をしている時
日立マクセルのビデオテープのCMタイアップの話があって
作曲をお願いしに行ったのが最初ですね

その時は、お忙しくて断られてしまったんですけど
話をする中で『松本(隆)くんに書いて貰うのはどうなの?
彼なら、曲を書いてくれる人を探してくれると思うよ』と…
結局、京平さんから松本さんを紹介して頂いて
松本さんが細野晴臣さんに作曲を依頼してくれたんです」とお答えになってましたが
このインタビューに登場する方々のお名前が、超豪華でビックリです(笑)

ちなみに…「ビートルズ世代のプロデューサーにお話を伺うと
『5人目のビートルズ』と言われたジョージ・マーティンを通じて
音楽プロデューサーという職種があることを知ったという方が多いんですが
長岡さんが刺激を受けたプロデューサーっていらっしゃいますか?」との質問に

「私が一番影響を受けたのは新田和長さんですが
実は、ジョージ・マーティンとは、1時間くらい会話したことがあるんです
ロンドンのエア・スタジオで、斉藤由貴さんのアルバムのミックスをしていた時
スタジオの入口の所で、白髪のおじさんがずっと立っていましてね
ラフな格好だったので、清掃員のおじさんかと思って
『中で座って聴きませんか?』と声をかけたら
『ありがとう。彼女は素敵な声をしているね』と…

周りは現地のスタッフばかりで、通訳もいなかったので
由貴さんの曲を流しながら、訊かれた質問に片言の英語で答えていたんですが
いつもは賑やかなスタッフが、ナゼかシーンとしてるんです
『この音色はどうやって作ったの?』と訊かれたので『12弦を弾いたんです』って言ったら
『良い音だね。グッジョブだ』と褒められて…

『掃除のおじさんの割には、やけに詳しいな』と思ったんですが
あとで聞いたら、その人がジョージ・マーティンだったという(笑)
最後は握手して別れたんですけど、話してる間は全く気がつきませんでした」と返され
…って、もう、これ、リーサル・ウェポンでしょ?(笑)

甲斐バンドのデビュー前に、甲斐さんと福岡のスタジオで練習なさっていた時も
見知らぬ外国人たちに声をおかけになって、ご一緒に演奏されたのが
カーペンターズのツアーメンバーだったというエピソードといい
ご自身でおっしゃってる通り「好奇心旺盛」で
「人と話すことは大事」と思っておられるみたいですね?(笑)

ともあれ…「その(松原みきさんの)仕事は、それで完結したんですが、ある時
京平さんから『話がしたい』という連絡が入って、お会いしたら
『長岡くんは、松原みきさん以外には、どういう人を担当しているの?』と訊かれたんです

私は『今は、京平先生と一緒に作りたいと思うアーティストがいないので、しばらくお待ち下さい
これだ!と思った時は、真っ先に伺いますから』と言ったんですけど
その1年後くらいに巡り逢えたのが、斉藤由貴さんでした」と続けられると

インタビューの方が「現在に至るまで、斉藤由貴さんの全ての楽曲をプロデュースしていますが
担当されることになった経緯からお聞かせ下さい」とおっしゃって
長岡さんは「当時、担当していたフローレンスというハーフの女の子の
ジャケット撮影の打ち合わせで、野村誠一さんの事務所に行った時
『ミスマガジンで、こんな可愛い子がいるんだけど』って、由貴さんの写真を見せられたんですよ

『この子、歌うんですか?』って訊いたら『すごく良い声だった』というので
コピーを貰って会社に戻り、制作部長に報告しようとしたんです
そうしたら、制作部長から先に『長岡くん!』と声をかけられて
『フジテレビから聞いたんだけど、この子、知ってるかい?』と見せられたのが同じ写真で…(笑)

奇しくも2人同時に話が来た訳ですが
『これはもうやるしかないでしょう』ということで、すぐに企画書を書きました
企画書は2ページくらいのシンプルなものでしたが、アイドル的なキャピキャピした路線ではなく
役者の仕事が歌の仕事に繋がるような曲作りをします…ということを書いた記憶があります

その時点では、作家は決まっていませんでしたけど
かねがね、作家やアレンジャーがコロコロ替わるのは良くないと思っていたんですね
特にアレンジャーは、1作ごとに替える傾向がありましたから

『もし自分が担当したら、たとえ結果がすぐに出なくても
同じメンバーで、統一感のある世界を作って行きたい
腰を据えて、数年間はアルバムを作って、共に成長して行かなくてはダメだ』と考えていました」

…と話されてますが、この感覚は「元バンドマン」らしいと言いますか
目先のヒットよりも、担当なさるアーティストの将来まで視野に入れた
「チーム」リーダーとしての発想じゃないかと…?
コメント
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