ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

ヒットソングを創った男たち1

2022-03-25 19:56:00 | メディア
「Happy Go Lucky!」への投稿メッセージの中に、この本の名前が登場してましたが
我が家にも同じ本が眠っておりましたので(笑)
この機会に、長岡さんへのインタビュー部分をご紹介します♪

ページのトップには…「長岡和弘…1951年、長崎県出身
74年、甲斐バンドのベーシストとして『バス通り』でデビュー
79年にバンドを脱退し、翌80年、キャニオンレコード(現ポニーキャニオン)に入社
制作ディレクターとして、石川ひとみ、谷山浩子、中島みゆき
斉藤由貴、チャゲ&飛鳥、BaBeらを担当する

2000年に独立し、制作会社のjomonを設立
aiko、ベッキー、半崎美子など、多くのアーティストを手がける一方
映像音楽プロデューサーとしても『ラストソング』『リング』『らせん』など
数々の映画やアニメ作品に関わる

2013年、故郷の大村市に拠点を移し、ハウステンボス株式会社の社長付顧問として
音楽制作やイベントのプロデュースに従事
2016年『シーハットおおむら』館長に就任し
音楽・文化・スポーツ等のイベント企画の開催・運営にも取り組んでいる」
…というプロフィールと、笑顔の長岡さんのお写真が掲載され

その下段に…「70年代はバンドマンとして、80~90年代はレコード会社のディレクターとして
2000年以降はフリーの音楽プロデューサーとして、活動領域を広げながら
第一線を走り続けているヒットメーカーがいる
アーティスト作品のみならず、映画やアニメーションなどの映像音楽や
イベント企画のプロデュースでも手腕を発揮している長岡和弘である

『裏切りの街角』(75年)や『HERO(ヒーローになる時、それは今)』(78年)など
ヒットを連発した人気バンドを脱退した長岡は、ディレクターに転身すると
石川ひとみを『まちぶせ』(81年)でブレイクさせるなど、新人時代から活躍

アイドルポップスでも、ニューミュージックでもヒットを放ち
独立後も新しい才能の発掘・育成や、後進の指導にあたっている
近年は生まれ故郷の長崎県大村市を活動拠点に
多忙な日々を送るマルチプロデューサーに話を聞いた」…との前置きが記されてます

そして…「長岡さんは福岡大学を卒業後、甲斐バンドの一員としてデビューしていますが
やはり筋金入りのロック少年だったのでしょうか?」…という質問に
「長崎で生まれ、佐世保から流れるFENを聴いて育ちましたが
祖母が芸者だったので、家の中で芸事が多かったんです」と長岡さん

「晩御飯が終わると、昔、芸子さんだった人たちが集まって来て
三味線に合わせて歌ったり、踊ったり…
昼間は商店街のおばちゃんだったりする人たちが、そういう時はすごく綺麗なんですよ
そんな環境だったので、自然とエンターテイメントが好きになって行ったんです」

…とお答えになっているんだけど、奥さんの父方のおばあちゃんは
芸子さんたちの三味線のお師匠さんで、見番(芸子さんたちの待機所)近くに住んでいたらしく
ご近所には元芸者さんのおばちゃんたちが多数いらしたそうで
長岡さんがおっしゃる雰囲気は「ナンとなく判る」んだとか…

それはともかく…「その内、兄貴がギターを弾き始めましてね
その伴奏を命じられて、ベースやドラム、ギターを演奏する内に音楽って楽しいなあと…
一度、みんなの前で演奏した時、殊の外ウケたのも気持ち良かったんですよね」
…って、これは「Happy Go Lucky!」でも話されてましたよね?

続いて…「ギターもドラムも演奏できる長岡さんが
甲斐バンドのベーシストに就任した経緯は?」との質問には
「バンドを組む時って、ギターやボーカルはすぐ決まるんです
自己顕示欲の強い人が真っ先に手を挙げますから(笑)」
…って、この「俺が、俺が」のお話も、つい最近聴いたような気が…?(笑)

「一方、ベースは大体最後で、バンドのまとめ役になることが多い
『俺が、俺が』というタイプは少ないような気がします
私自身、ベースをやりたかった訳ではないんですが、性格的には向いていたんでしょうね
自分たちのオリジナル曲が出来た時、ベースラインを作って行くのも楽しかったですし…」と長岡さん

ちなみに、我が家の住人は「まとめ役」に向いてるかどうかはさておき
もしバンドを組むなら「絶対ベースがいい!」と申しております(笑)
ボーカルやギターほど目立たないながら、いないと困る…という感じが気に入ってるらしい(笑)
まあ、映画やドラマを作るなら、監督や俳優ではなく
かといって、照明さんや大道具さんでもなく
「脚本家がいい」っていうのと同じ感覚みたいです

ともあれ、長岡さんは…「私は下手だから、カッコいいフレーズを思いついても
上手く弾くことが出来なくて、当時は細野晴臣さんや後藤次利さんの演奏を聴いては
『すごいな!でも自分にはとても無理だ』と思っていました

ですから、バンドをやっている間は一生懸命弾きましたけど
1位を獲るとか、何か形になる結果を残せたら
それをきっかけに辞めるのがいいなと考えていたんです」…と続けられていて
甲斐バンドを脱退なさったのは、ご病気のせいばかりではなく
そういうお気持ちもあってのことだったんだなあと…

インタビュアーの方が「プレイヤーではなく
ディレクターの道を志すようになったのは、それが理由でしょうか?」とお訊ねになると
長岡さんは「そうですね、ディレクターは演奏しなくてもいいですから…
私はベースを弾いていた時、他のメンバーのことばかり気になっていたんです

自分は下手なくせに、人に対しては『もうちょっと、こうやればいいのに』って…(笑)
それは、子供の頃、芸子さんたちの歌や踊りを見ていたからだと思うんですが
『こうした方が独創的でカッコいいんじゃないか』とか
『パフォーマンスはこっちの方が視覚的に目立つ』みたいなことが自然と浮かんで来たんですね」とお答えになり

「ベーシスト出身のディレクターが活躍されているのは
一歩引いて物事を見られる資質を備えているからかも知れませんが
長岡さんの場合、幼少時の体験も大きく影響していた訳ですね
ちなみに、甲斐バンド時代のディレクターはどなたでしたか?」との言葉に…

「最初は、東芝EMIの若手だった中曽根純也さん、原沢和美さん、斉藤隆さんの3人が
同時に担当してくれて、他にもシンコーミュージックにいらっしゃった兼松光さんが
原盤制作プロデューサーとして手伝ってくれました
皆さん、それぞれ持ち味がありましたけど、意見がまとまりにくいこともあって
4枚目のアルバム『この夜にさよなら』(77年10月)から、新田和長さんに代わったんです
そうしたら、やり方が全然違うんですよ

中曽根さんたちは、非常に真面目にやって下さっていたんですけど
新田さんはスケールの大きな方で、就任早々
『僕は、甲斐バンドのことをすごい才能で素晴らしいバンドだと言って回るから
君たちは、新田和長っていうプロデューサーは
とにかくすごいぞって言ってくれる?』とおっしゃって…
そういうことを言うディレクターはいなかったから新鮮でしたね

『HERO』が起用されたセイコーのCMも、確か新田さんが取って来てくれたタイアップで
当時、民放で同時放送されていた『ゆく年くる年』で一斉に流れたんです
その話を聞いた時は、甲斐バンドを知って貰うのに、これ以上の方法はないと思ったし
そういうことに長けた新田さんは、すごいプロデューサーだと思いましたね」と話されてましたが

ナンせ東芝EMIで、後の「ニューミュージック」部門を立ち上げられたり
チューリップを担当なさっていた時には「心の旅」のリードボーカルに
姫野達也さんを抜擢なさった方ですからねぇ…
甲斐さんから「グレートマジンガーより偉大な」と称された中曽根さんも分が悪いかも…?(失礼!)

そして、インタビュアーの方が「甲斐バンド時代に接したディレクターや
プロデューサーのやり方を見て、学ぶ部分もあったのではないでしょうか
長岡さんの場合、アーティスト側の気持ちも判る訳ですから
当時の経験がディレクターになった時に役立ったのではないかと拝察します」とおっしゃると

長岡さんは「確かに色んな方から色んなことを言われる中で
『あの人の言い方は判りやすいな』みたいなことは感じていましたね
例えばレコーディングでは、録り終わった直後
『一生懸命やったけど、今のはどうだったんだろう』って思ってるんだけど
ディレクターの中には、目を閉じたまま何も言って来ない人もいる

その時間が私にはすごく長く感じられたし
『はい、もう1回行きましょう』と言われた時は
『どこがいけなかったのか、言って欲しいな』と思っていました
中には、細かく注文をつけて来る人もいましたけど
どういうやり方がいいかは、アーティストの性格によりますよね

私は煽てられると木に登るタイプですが(笑)貶されて伸びる人もいる
ディレクターやプロデューサーは、そこを見極めた上で
相手によって、やり方を変えなくてはいけない訳です
バンドを例にすると、どのバンドもメンバーのレベルは同一じゃありません
突出した人もいれば、私みたいな下手くそもいる

でも、下手な人に『練習しろ』と言うのは逆効果なんですね
本人は自分のレベルに気づいているし、ミュージシャンって、デリケートな人が多いから
それは、鬱病の人に『頑張れ』と言うのと一緒
むしろ『何を悩んでるの?ちゃんと弾けてるじゃない』って声をかけた方が
『そうか、簡単なことだったんだ』って、クリア出来たりもするんです

当時は、歌を録る時に、1日30回も歌わせるような
体育会気質のディレクターもいたようですけど
そういう話を聞くと、集中力も声も続かなくなるのに
どうして無駄なことをさせるんだろうと思っていました」と返していらっしゃいましたが
完璧主義の某バンドリーダーの方を思い浮かべたのは、ボクだけでしょうか?(苦笑)
コメント
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