甲斐さんがお書きになる歌詞には
ご自身の実体験が、かなりの割合で含まれているそうですが
ご自身の実体験が、かなりの割合で含まれているそうですが
それは、その時の心情を曲にされることで
昇華なさっている部分がおありだからでしょうね?
夏目漱石も「草枕」の中で、語り手の画家に…
「涙を十七字にまとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して
俺は泣くことの出来る男だという嬉しさだけの自分になる
どんな苦境も、その景色を『一幅の画』として見たり
『一巻の詩』として詠めれば抜け出せる
不幸を描き出し、それに悶える己を嘆くのではなく
『自分の屍骸を、自分で解剖する』かのように
まずは、情感を定型にかたどるべし」…と語らせてます
ただ、哲学者の野家啓一さんは…「経験は物語られることによって初めて経験へと転成を遂げる
心の内を赤裸々に吐露する『告白』も
社会の姿を粉飾なしに描写する『写実』も、叙述の形式こそ違え
『真実をありのままに描く』ことを素朴に信じている
が、文学も科学も歴史も、それぞれに『物語られる』ものであり
『素顔』もまた仮面の一つでない保証はない」…と記され
漫画家の川勝徳重さんも「エモーショナルなことは、書けば書くほど嘘になってゆきます
感情について書くことは、それ自体が一つの解釈だし
解釈は、見えない感情の磁場の中で、辻褄を合わせる内に歪んで来る」…と話されていて
もちろん、甲斐さんが書かれたのは、あくまでも歌詞である以上
全てが事実ではないのは当然だと思うし
私的なことを「どこまでさらけ出せばいいのか?」という葛藤を
抱えておられた時期もおありだったみたいで
かつてのインタビューでは…「他人に聴いて貰う楽曲にする訳ですから
事実をそのままというのではなくて
ちゃんとイマジネーションを駆使して、作品として成立させて行く訳ですけど
根底にあるのは非常に個人的な思いであって
本質的な意味で、それをさらけ出さなくてはいけない
適当なところで止めておくことは出来ないんです
ただ、さらけ出すと言っても、生のままの感情をそのままぶつけているんじゃないんです
表現者は、自分の感情の料理の仕方みたいなものを、ちゃんと判っていないといけない
ものすごく私的なことを書いたとしたら
それが、きちんと普遍性を帯びているかを
どこかで客観的に見ることが出来ないといけない」…と語られてますが
とはいえ、聴き手にとって、作り手自らが歌うということは
歌詞の中に登場する人物に歌い手の姿を重ねやすいものだと思うし
歌詞の中に登場する人物に歌い手の姿を重ねやすいものだと思うし
だからこそ、我が家の住人が、曲が出来た当時の甲斐さんを取り巻く環境や背景を知って
勝手に胸を痛めていたんじゃないかと…?(苦笑)
もっとも、甲斐さんがご自身の内面を掻き回すかの如く苦しまれながら
お書きになった曲が、いくら素晴らしい曲だったとしても
松藤さんみたいに「一生、不幸だったらいいのに…(笑)」とは
とても思えなかったみたいだけど…(苦笑)
それはさておき、作家の高橋源一郎さんは…
「作家の仕事は、複雑なものを複雑なままに表現することだと思っています」と話され
同じく作家の井上ひさしさんは…「作文の秘訣を一言で言えば
自分にしか書けないことを、誰にでも判る文章で書くということだけなんですね」
…と、おっしゃっていて、真っ向から食い違っておられるんだけど(笑)
これは、お二人それぞれの視線の先が違うためらしく
井上さんが、今目の前にいる人、あるいは同じ時代を生きている人に
「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」伝えようとなさるのに対し
高橋さんは「現在の人間だけでなく、死んだ人
これから生まれて来る人のことも併せて考えること
生死を超えて感知する『繊細なアンテナ』は
短期の利害にしか関心のない資本主義の思考とは異質だ」といった立ち位置でいらっしゃるようで
我が家の見解としては「井上さんはロックだな(笑)」に落ち着きました(笑)
そうそう!彫刻家の飯田善嗣さんが「ピカソ」という著書に…
「10歳で、どんな大人より上手に描けた
子供のように描けるまで、一生かかった
ピカソが生涯を通じて追い求めたのは、文明の『外』に出ること
すなわち『名を与えられる以前の事物の記憶』であり
文明人が憧れながら、もう二度と手に入れることの出来ない荒々しい野性的な生命力だった
ピカソは『同じ所にじっとしていられない』と、安住と眠りと怠惰を嫌った
思えば、これが子供の真骨頂だ」…と記されているんですが
こういう「永遠の子供」と呼ぶべき人は、たとえ絵画に目覚めなくても
いずれ、何らかの形で「表現」しなくてはいられなかったんじゃないかと…?